[MZZ40-P01] 村垣淡路守範正公務日記に記された北海道・樺太での安政年間の気象観測記録
キーワード:村垣範正、北海道、温度計、気象観測、安政年間
箱館奉行を務め、後に万延の遣米使節副使として日米修好通商条約批准書交換にも携わった村垣淡路守範正(1813~1880)の公務日記の中に1854年(嘉永7年・安政元年)から1858年(安政5年)までの北海道・樺太での気象観測記録が存在することが元木(1959)によって初めて紹介された。天気など人手による観測に加え、温度計による観測の記述があることが報告されていたが、気圧も記述されていることが明らかになった。
村垣の公務日記は1854年元日から1865年(慶応元年)5月26日(月日は全て旧暦)まで、渡米日記を含めて26冊からなるが、東京大学史料編纂所で翻刻・編纂された第17冊までを調べた。これは村垣が渡米する1860年1月までにあたる。1854年3月27日から10月10日までの第2・3冊は日米和親条約の締結(1854年3月)を見据えて、村垣が蝦夷地・北蝦夷地(樺太)・千島巡見に派遣された記録である。この第2冊から日々の記述に天気が加わり、江戸出発前からほぼ毎日記録されているが、第2冊の途中、松前に到着した直後の1854年5月6日から温度計(寒暖計/寒暖斗)の値の記述が加わる。その後、巡見中も、温度は毎日のように記録されている。9月19日村垣が松前藩を離れると温度の記録は見当たらなくなる。1856年、村垣は箱館奉行に任じられ、ふたたび蝦夷地巡見の後、3月に箱館に入り1年間滞在するが、4月29日から温度が再び記され、断続的にではあるが翌1857年4月までの箱館滞在中続き、この間、7月14日から8月19日には気圧も記述される。続く三度目の蝦夷地巡見中も温度が記されている。巡見を終え村垣が8月に松前藩を離れて以降、1860年1月まで天気の記述は連日続くが、測器による観測値は全く記されない。
これら温度計・気圧計は松前藩が所持していたものであること、携行可能な温度計が箱館開港前の1854年には観測に使用されていたことがうかがえる。
江戸時代の日本人による気象の記録として天気が記述されていることは珍しいことではないが、温度計など測器による観測は江戸や大坂などでいくつか知られている程度で、松前藩ではこれまで他に知られているものはない。
参考文献
元木直吾, 1959: 北海道気象観測事始め. 気象, 3, 4–5.
村垣の公務日記は1854年元日から1865年(慶応元年)5月26日(月日は全て旧暦)まで、渡米日記を含めて26冊からなるが、東京大学史料編纂所で翻刻・編纂された第17冊までを調べた。これは村垣が渡米する1860年1月までにあたる。1854年3月27日から10月10日までの第2・3冊は日米和親条約の締結(1854年3月)を見据えて、村垣が蝦夷地・北蝦夷地(樺太)・千島巡見に派遣された記録である。この第2冊から日々の記述に天気が加わり、江戸出発前からほぼ毎日記録されているが、第2冊の途中、松前に到着した直後の1854年5月6日から温度計(寒暖計/寒暖斗)の値の記述が加わる。その後、巡見中も、温度は毎日のように記録されている。9月19日村垣が松前藩を離れると温度の記録は見当たらなくなる。1856年、村垣は箱館奉行に任じられ、ふたたび蝦夷地巡見の後、3月に箱館に入り1年間滞在するが、4月29日から温度が再び記され、断続的にではあるが翌1857年4月までの箱館滞在中続き、この間、7月14日から8月19日には気圧も記述される。続く三度目の蝦夷地巡見中も温度が記されている。巡見を終え村垣が8月に松前藩を離れて以降、1860年1月まで天気の記述は連日続くが、測器による観測値は全く記されない。
これら温度計・気圧計は松前藩が所持していたものであること、携行可能な温度計が箱館開港前の1854年には観測に使用されていたことがうかがえる。
江戸時代の日本人による気象の記録として天気が記述されていることは珍しいことではないが、温度計など測器による観測は江戸や大坂などでいくつか知られている程度で、松前藩ではこれまで他に知られているものはない。
参考文献
元木直吾, 1959: 北海道気象観測事始め. 気象, 3, 4–5.