日本地球惑星科学連合2018年大会

講演情報

[EJ] Eveningポスター発表

セッション記号 S (固体地球科学) » S-SS 地震学

[S-SS08] 活断層と古地震

2018年5月22日(火) 17:15 〜 18:30 ポスター会場 (幕張メッセ国際展示場 7ホール)

コンビーナ:小荒井 衛(茨城大学理学部理学科地球環境科学コース)、近藤 久雄(産業技術総合研究所 活断層・火山研究部門)、道家 涼介(神奈川県温泉地学研究所、共同)、松多 信尚(岡山大学大学院教育学研究科)

[SSS08-P18] 国立科学博物館に残る1927年(昭和2年)北丹後地震に関する写真資料

*室谷 智子1大迫 正弘1新谷 勝行2 (1.国立科学博物館、2.京丹後市教育委員会)

キーワード:1927年北丹後地震、地震被害写真、地表地震断層、今村明恒

1927年(昭和2年)3月7日18時27分頃に現在の京丹後市を震源とするM7.3の地震が発生した.京都府宮津では最大震度6相当と報告され,丹後半島を中心に地震動や火災による死者約2,900名,負傷者約7,800名の被害が発生し,家屋の倒壊や全焼も多く見られ,若干の津波も観測された.この地震は,郷村断層帯と山田断層帯主部からなる山田断層帯の一部の活動により発生し,互いに直交するように顕著な地表地震断層が出現した.北丹後地震では明瞭なP波初動の分布や地殻変動が観測され,また,この地震を機に関西の地震観測を強化するために京都大学阿武山観測所が設置されることになったなど,地震学的に重要な地震である.1925年に東京帝国大学地震研究所が設立されてから初めての大地震であり,地震発生直後に各専門家が余震観測や地殻変動,建物被害の調査などの現地調査を行い,それらは多くの写真とともに報告されている(例えば,今村(1928,BERI)やYamasaki and Tada (1928, BERI)).国立科学博物館(以下,科博)には,北丹後地震に関する写真資料として,ネガフィルムの写真,紙焼き写真,幻灯,絵葉書が残されている.これらは,一部をのぞいて東京帝国大学地震学教室(以下,地震学教室)に由来するものである.

写真を記録したネガフィルムは,「SEISMOLOGICAL INSTITUTE, IMPERIAL UNIVERSITY, TOKYO, JAPAN」と書かれた2つの封筒に分かれて101枚残されていた.これらの写真のうち40枚は今村(1928)による調査報告に掲載されているものであり,そのキャプションからある程度の撮影場所が分かる.東京大学地震研究所彙報第3号に掲載された「丹後地方地震調査要項」によると,今村は地震発生直後に現地へ赴き,余震観測や震災地調査を松澤武雄,那須信治とともに行っている.これらのネガフィルムはその調査時に撮影されたと思われ,郷村断層の地表のずれや,地すべり,町の被害の様子がわかる.

紙焼きの写真として,台紙に貼られたものが29枚,台紙なしのものが4枚残されている.台紙の上部には穴が2つ開けられており,引き伸ばした写真を台紙に貼り,展示に使用したものと思われる.台紙の表には,写真の説明が書かれた紙がクリップ留めされていたようであるが,外れてしまいクリップの錆の痕だけが残っているものも多い.裏面には,「東大」と書かれたラベルシールが14枚に貼られており,うち1枚には「理学部地震学教室印」と朱印が押印されていた.台紙貼りの写真は,1枚を除くすべてがネガフィルムの写真と照合できる.2枚の台紙なし写真の表面には右上に「賜天覧台覧」と朱印が押印されている.この2枚の写真は,『奥丹後震災誌』(京都府,1928)に掲載されているものと同じであり,「この写真は五月五日今村・山崎両博士が御前講演の際特に展覧・台覧の栄を賜はりしものの写し」と説明されていることから,地震学教室に残されていたものと思われる.別の2枚の写真の裏面には「東京科學博物館地学部」のラベルシールが貼られており,地震学教室由来ではなく,科博の前身である東京科学博物館から受け継がれてきたものと思われる.紙焼き写真は計33枚が科博にて保存されているが,同一の写真もあり,原図としては30種類と思われる.この30枚については,科博のウェブサイトにて公開をしている.その他にも,17枚の幻灯と,「清水商會」が発行した『昭和二年三月七日 大阪地方 奥丹後 大震火災惨状の實况』という16枚の絵葉書が残る.
科博のウェブサイトにて公開していない全写真については,室谷ほか(2017,BNMNS)にて報告した.撮影場所の全てが明らかになっているわけではないが,これらの写真が,過去の災害の未来への継承や,防災対策のために活用されることを期待する.