15:30 〜 15:45
[HCG29-01] 日本における地層処分の実現性に関する論点整理の試み:
理学と工学の相互作用とギャップをめぐって
キーワード:地層処分、高レベル放射性廃棄物、理学と工学、リスク
2017年7月28日、政府は高レベル放射性廃棄物(HLW: High-level Radioactive Waste)の地層処分に関する「科学的特性マップ」(以下、「マップ」)を公表した。「マップ」は地層処分を実施する場所を選ぶ際に考慮する必要があると思われる科学的特性とその地理的な分布を「大まかに俯瞰」できるよう、日本地図上で示したものであると政府は説明している。政府と地層処分の「実施主体」である原子力発電環境整備機構(NUMO)は、このマップはいわゆる「最適地」を示すものではなく、また、このマップの色分けに基づいて直ちに関係自治体に対して処分場候補地としての調査を受け入れるように求めることもないと強調する。
しかし、政府が「マップ」を提示したことは、HLWを地層処分によって最終処分するという方針は変わらず、その処分場候補地の選定こそが現下の公共政策上の実際的な課題であるとの政府の認識もまた、何ら変化していないということでもある。
地層処分の成立性、特に地球科学的な活動が活発な日本における成立性はかねて論争の的となってきた。とりわけ2011年3月の東日本大震災ならびに福島原発事故(3.11複合災害)を受けて、災害をもたらす自然現象、あるいは高度な人工物の特性についての専門知の不定性とどう向き合うかが問い直される中、少なからぬ専門家から、また広く一般の市民から改めて疑問を呈する意見が出されたことは記憶に新しい。日本学術会議が2012年9月以降、数次にわたって行ったHLW処分政策の見直しを求める一連の報告においても、現行の地層処分を前提とした政策には抜本的な見直しが必要であり、戦略的なモラトリアムとして暫定保管を実施することが好ましいという首長の主たる根拠の一つが、この地球科学的な(認識の)不確実性・不定性であった。
こうした状況を一見すると、地層処分の成立性をめぐる論争の核心は、安全性をめぐって、地球科学的な不確実性とそれに起因するリスクを重く見て保守的な立場を取るか、リスクの評価や対処は十分可能と考える立場の対立にあるようにも見える。
しかし、実際の論争の構造は本当にそこに収斂しうるのだろうか。
投稿者は昨年、原子力発電所の規制評価における基準地震動の問題をめぐって、本来的に現象の理解に重きを置き、知識生産それ自体に意義と価値を見いだす態度を取る理学(者)と、クライアント(利用者)を持ち、問題解決や目的の達成を使命とする工学(者)の間の緊張関係とディスコミュニケーションに着目した見立てを示した。
今回は、この問題の切り取り方を地層処分をめぐる論争にも適用することを試みたい。
昨年も論じたように、理学(者)は自らが産出・知悉する専門知が災害等のリスクに関する警戒の必要性を示唆した場合、そのことを社会の他のステークホルダーと積極的に共有しようとすることがあるが、その際に発信する専門的助言はリスク回避戦略を比較的躊躇無く含みうる。これに対して、工学(者)にとっては、その問題解決の使命が本来的にリスク・マネジメントを含み込んでおり、その際のリスク戦略はリスク低減やリスク保有、リスク移転といったリスク回避以外の選択肢を含む最適化問題となる。その中ではリスク回避による解決は避けるべきものとなり、工学的対応のあきらめ、挫折というニュアンスを帯びてくる。
特に地層処分は工学的な企てとしては異例といってもよいほど、自然環境が本来的に持つ一般的な性質を目的達成のために積極的に活用するという含意を持つため(例:「天然バリア」と「人工バリア」による「多重バリア」の考え方)、こうした理工間の役割意識の差異が専門的・学術的・政策的な議論の前線に否応なく顔を出す可能性が高い。
また、これに関連して、地層処分の工学的なコンセプトに賛同する専門家は、放射性物質の「人工バリア」内への完全な閉じ込めという意味の「隔離」を意図してはおらず、一定の希釈・拡散は想定に入れていると解されるのに対し、批判的な専門家の中には、そうした状況はすでに「隔離」の失敗であり、地上の人間や環境に対するリスクが極めて大きくなるとの理解に立って批判を展開しているように思われる場合もある。
こうした、役割意識や「地層処分」の成否に関わるクライテリアに関する認識の差異は、リスク・ガバナンスにおける様々な相互作用を通して時に増幅し、様々なディスコミュニケーションを生じて、ひいてはリスク・ガバナンスをめぐる公共的論議や政策形成の現場において見過ごせない社会的逆機能を生じている可能性も大いに懸念される。
そこで、本稿では、いくつかの具体的な論点をめぐる立場の異なる主張の例を取り上げ、それらの当否や優劣を論じるのではなく、前提とする認識の差異や背後にある役割意識の差異の分析を通して、日本における地層処分の実現性に関する論点整理を試み、今後のいっそう実りある対話や討議のための道筋を展望したい。
しかし、政府が「マップ」を提示したことは、HLWを地層処分によって最終処分するという方針は変わらず、その処分場候補地の選定こそが現下の公共政策上の実際的な課題であるとの政府の認識もまた、何ら変化していないということでもある。
地層処分の成立性、特に地球科学的な活動が活発な日本における成立性はかねて論争の的となってきた。とりわけ2011年3月の東日本大震災ならびに福島原発事故(3.11複合災害)を受けて、災害をもたらす自然現象、あるいは高度な人工物の特性についての専門知の不定性とどう向き合うかが問い直される中、少なからぬ専門家から、また広く一般の市民から改めて疑問を呈する意見が出されたことは記憶に新しい。日本学術会議が2012年9月以降、数次にわたって行ったHLW処分政策の見直しを求める一連の報告においても、現行の地層処分を前提とした政策には抜本的な見直しが必要であり、戦略的なモラトリアムとして暫定保管を実施することが好ましいという首長の主たる根拠の一つが、この地球科学的な(認識の)不確実性・不定性であった。
こうした状況を一見すると、地層処分の成立性をめぐる論争の核心は、安全性をめぐって、地球科学的な不確実性とそれに起因するリスクを重く見て保守的な立場を取るか、リスクの評価や対処は十分可能と考える立場の対立にあるようにも見える。
しかし、実際の論争の構造は本当にそこに収斂しうるのだろうか。
投稿者は昨年、原子力発電所の規制評価における基準地震動の問題をめぐって、本来的に現象の理解に重きを置き、知識生産それ自体に意義と価値を見いだす態度を取る理学(者)と、クライアント(利用者)を持ち、問題解決や目的の達成を使命とする工学(者)の間の緊張関係とディスコミュニケーションに着目した見立てを示した。
今回は、この問題の切り取り方を地層処分をめぐる論争にも適用することを試みたい。
昨年も論じたように、理学(者)は自らが産出・知悉する専門知が災害等のリスクに関する警戒の必要性を示唆した場合、そのことを社会の他のステークホルダーと積極的に共有しようとすることがあるが、その際に発信する専門的助言はリスク回避戦略を比較的躊躇無く含みうる。これに対して、工学(者)にとっては、その問題解決の使命が本来的にリスク・マネジメントを含み込んでおり、その際のリスク戦略はリスク低減やリスク保有、リスク移転といったリスク回避以外の選択肢を含む最適化問題となる。その中ではリスク回避による解決は避けるべきものとなり、工学的対応のあきらめ、挫折というニュアンスを帯びてくる。
特に地層処分は工学的な企てとしては異例といってもよいほど、自然環境が本来的に持つ一般的な性質を目的達成のために積極的に活用するという含意を持つため(例:「天然バリア」と「人工バリア」による「多重バリア」の考え方)、こうした理工間の役割意識の差異が専門的・学術的・政策的な議論の前線に否応なく顔を出す可能性が高い。
また、これに関連して、地層処分の工学的なコンセプトに賛同する専門家は、放射性物質の「人工バリア」内への完全な閉じ込めという意味の「隔離」を意図してはおらず、一定の希釈・拡散は想定に入れていると解されるのに対し、批判的な専門家の中には、そうした状況はすでに「隔離」の失敗であり、地上の人間や環境に対するリスクが極めて大きくなるとの理解に立って批判を展開しているように思われる場合もある。
こうした、役割意識や「地層処分」の成否に関わるクライテリアに関する認識の差異は、リスク・ガバナンスにおける様々な相互作用を通して時に増幅し、様々なディスコミュニケーションを生じて、ひいてはリスク・ガバナンスをめぐる公共的論議や政策形成の現場において見過ごせない社会的逆機能を生じている可能性も大いに懸念される。
そこで、本稿では、いくつかの具体的な論点をめぐる立場の異なる主張の例を取り上げ、それらの当否や優劣を論じるのではなく、前提とする認識の差異や背後にある役割意識の差異の分析を通して、日本における地層処分の実現性に関する論点整理を試み、今後のいっそう実りある対話や討議のための道筋を展望したい。