日本地球惑星科学連合2018年大会

講演情報

[JJ] ポスター発表

セッション記号 H (地球人間圏科学) » H-DS 防災地球科学

[H-DS10] 津波とその予測

2018年5月23日(水) 13:45 〜 15:15 ポスター会場 (幕張メッセ国際展示場 7ホール)

コンビーナ:山本 近貞 直孝(防災科学技術研究所)、今井 健太郎(国立研究開発法人 海洋研究開発機構)、対馬 弘晃(気象庁気象研究所)

[HDS10-P08] 徳島県鳴門市・阿南市間海岸での安政南海地震(1854)の津波高さ

*都司 嘉宣1 (1.公益財団法人深田地質研究所)

キーワード:安政南海地震津波、徳島県

今回の調査では安政南海地震(1854)の津波の遡上・浸水高さを徳島県北部の鳴門市撫養地区を起点として順次南下し、阿南市椿町をまでの調査を行った。鳴門市海峡部には、塩田の被害記録が『先祖年代記』(鳴門町高島福永周一文書、S-1805、「新収日本地震史料・第5巻別巻5下」の第1805頁の意、以下同)に記載があり、鳴門海峡に面した島田島で0.7mほどの津波による水面上昇があったと推定される。大毛島の高島塩田の被害も記載されており、やはり高さ0.7mほどと推定される。鳴門市岡崎では津波に依って30%ほどの家屋が潰家となっており(『中財熊雄所蔵文書』、M4-375、「日本地震史料」第375頁の意味、以下同)、岡崎の市街地の標高を測定し、ここでの津波浸水高さは3.4mと推定された。(『異事時変説』(阿波海部郡川東村所蔵、M4-373)には撫養の南の林崎で津波到達点は「林崎立岩まで」と記録されている。この「立岩」は現地では「神依岩」と呼ばれている。標高は1.8m(TP)と測定された。徳島空港のある松茂町では、豊岡砂丘を襲った津波について、豊岡新田の名主・板東茂兵衛は、「去ル寅年大地震波荒之節長原浦より引続大手堤大半打被払、右松林一円潮入ニ相成」と記載されており、この砂丘上の松林の標高を測定してここでの遡上高さを5.8mTPと推定する。徳島市内では今切川に架かる加賀須野橋付近で遡上してくる津波に「一、潰家七軒、大破六軒、川筋は津波一丈(3.0m)程参り候」と記されている(『御大典記念阿波藩民政資料下』(大地震実録記,S-1796)。小松島市を流れる勝浦川では、「小松島市史-旧小松島町の巻-』(S-1845)に「津波は江田の橋まで上荷船を押し揚げてきた程であった」と記録されている。この橋の位置での水面標高は1.70mTPであるが、ここに漂着するためには荷船の喫水下50cmあったとして、ここでの津波遡上高さは2.2mとする。旧小松島では、市街地には浸水しておらず(光善寺記録)南部の「今開、南開」に浸水があったことから、浸水高さは0.8mと推定する。『福井氏家来桑原朔二、阿州徳島より家元へ之書状』(M-122)の記事は伝聞による完全な事実の誤記載である。小松島市南部の田園に「旗山」と呼ばれる露岩丘がある。『異事時変説』(M-373)に「南方田野籏山、金磯新田、和田津新田大破損。田野籏山迄海嘯打懸也」の記載があり、これを元に旗山の海岸に最も接近した地点の標高を測定して浸水高1.7mTPを得た。この場所は海岸線から約1.6kmの内陸に位置している。この旗山から南東約3kmのところに、豊浦の砂丘の微高地があり、ここに豊浦神社があって、安政南海津波のとき付近の住民がこの神社に避難して辛うじて助かったと伝える(『赤石町豊浦神社碑文』、S-1838)。この神社の境内地の標高は1.8mであって、「旗山」での測定値とほぼ一致している。わずか10cmの標高差が人命を助けたことになる。阿南市出島工地(たくむぢ)にかって野上神社があったと伝える。「津波が松原から溢れ、野上神社にスズキが打ち上がった」と記録されている(『平島村史』M-375)。この野上神社は現在は畑作地の中に消滅したが、現地の郷土史家・湯浅宗男氏の証言によって所在が確定した。その標高1.8mをここでの遡上高とする。阿南市の中心市街地である富岡付近では、学原まで浸水したとされ、遡上高は2.0mとする。海岸線から約3kmの内陸に位置する。この学原の東約3kmの海岸線近くに位置する福村では林徳太郎家で床上浸水1.5m(明治25年の高潮)より大きかった(『富岡町史』、M-193)。この付近の地盤高2.5mを基準に推定すると、ここで安政南海地震の浸水高さは4.5m程度であったことになる。阿南市橘は『大地震実録記』(S-1798)に総家数156、流失22、潰家23、大小破損111と記され、この被害数を合計すると総家数156軒に一致する。つまり、ほぼ全市街地が浸水したのである。平均地盤標高1.8mであることから、ここでの浸水高は4.2mと推定される。橘港の南に位置する旧福井村については『福井村史』(M-375)に、「橘港に停泊の船舶は碇綱を断ち切り漂流して、五十石船一艘は大西関下(に)漂着し、同じく一艘は大西犬の馬場田地へ漂着す」の記載がある。この文にある「大西関下」、「犬ノ馬場」の2地点は福井小学校元校長・粟田正治氏の御教示を得て、それぞれ、遡上高4.2m、および4.7mTPの数値を得た。阿南市旧椿町の八幡宮の常夜灯の基盤石に「泥土去りて砂石を堆くせる田三十余町」の記載がある。三十余町(約30ha)の水田面積が津波で荒廃したというのである。海岸線から順に浸水していったとき、ちょうど30haが浸水する限界線を決めることにより、ここでの浸水高さが4.2mであったと推定された。以上の調査結果から図のような津波遡上・浸水高さ分布図を得た。