日本地球惑星科学連合2018年大会

講演情報

[JJ] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-ZZ その他

[M-ZZ40] 地球科学の科学史・科学哲学・科学技術社会論

2018年5月20日(日) 10:45 〜 12:15 202 (幕張メッセ国際会議場 2F)

コンビーナ:矢島 道子(日本大学文理学部)、青木 滋之(会津大学コンピュータ理工学部)、山田 俊弘(東京大学大学院教育学研究科研究員、共同)、吉田 茂生(九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門)、座長:矢島 道子山田 俊弘

11:00 〜 11:15

[MZZ40-02] 日本における気候変動研究の歴史(2)

*泊 次郎1 (1.東京大学大気海洋研究所)

キーワード:地球温暖化、地球寒冷化、二酸化炭素

温室効果ガスの増加に伴う地球温暖化の研究が日本で本格化したのは、1980年代半ばであったことを、2017年の連合大会で発表した。今回は、1970年代には主流であった地球寒冷化説が、一転して地球温暖化説に転換した背景には何があったのかについて紹介する。

 1950年代には、19世紀後半以降の世界的な温暖化が注目を浴びていた。そんな中で、化石燃料の燃焼などに伴って大気中に放出される二酸化炭素の増加による地球の温暖化の可能性を指摘して、日本でも二酸化炭素の濃度の測定を始めるよう提唱したのは東北大学の山本義一であった(山本、1957)。二酸化炭素の増加だけでは現実に起きている気温上昇を説明できない、などとの異論もあったが、二酸化炭素の増加による温暖化説は、太陽活動の変化説と並ぶ有力な仮説であった。

ところが1960年代半ばになると、1940年頃からの世界的な寒冷化に伴って日本でも気温の低下傾向が顕著になり、異常気象が騒がれるようになった。このため、異常気象や地球寒冷化の原因についての議論が盛んになり、二酸化炭素の増加という問題に目を向ける研究者は少なくなった。寒冷化の原因としてあげられたのは、化石燃料の燃焼などに伴って排出されるエーロゾルの増加や、太陽活動の低下、気候の周期的変化説であった。

 一方、世界的には1960年代から、二酸化炭素の増加に伴う気候変化を定量的に議論するモデル研究が盛んになった。1970年代に入って環境問題への関心が高まってくると、二酸化炭素による地球温暖化が将来的な地球環境への脅威ととられられるようになった。1976年には世界気象機関(WMO)が、二酸化炭素の増加に伴う将来の気候変化に懸念を表明する報告書を公表。1979年には米国科学アカデミーが、二酸化炭素が倍増すると地球の平均気温は3±1.5℃上昇する、とする報告書を公表した。WMOなどの主催で、初の世界気候会議も開かれ、1980年からは世界気候研究計画(WCRP)が始まった。

 こうした世界的な動向に対応して、日本気象学会では1978年ごろから気候モデルや気候変動についてのシンポジウムをしばしば開いた。気象庁もWCRPに対応するために1980年には気候調査企画室(81年から気候変動対策室に組織替え)を設けた。しかし、これによって二酸化炭素などの増加による地球温暖化説が主流になったわけではなかった。例えば、気象庁が1974年に出した第1回の『異常気象レポート』では、気候変動の80年周期説を根拠に、当分は寒冷化傾向が続くと指摘。1979年の第2回目の『異常気象レポート』でも、気候モデルは「まだ完全なものではない」として、当分寒冷化が続くとした。

 1984年の3回目の『異常気象レポート』では、それまでの寒冷化説から温暖化説を採用するようになった。これには、日本でも気温の上昇傾向が明らかになり、1979年と1981年の平均気温は、相次いで史上最高を記録したことが大きく影響した、と考えられる。現在の気温の上昇を説明するには、二酸化炭素の増加という原因が説得力を持ったからである。

 参考文献

・山本義一「気象輻射学の最近の諸問題」『気象研究ノート』8巻2号(1957)、11-15、50-62