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[SSS08-03] 1707年宝永地震と富士山宝永噴火に関する一史料
-元禄地震・宝永地震・宝永富士山噴火を記した「当山本宮記」-
キーワード:1703年元禄地震、1707年宝永地震、1707年宝永富士山噴火、当山本宮記
駿河湾沿岸域における1703年元禄地震,1707年宝永地震の本震・宝永富士山噴火時の大宮(富士宮市)とその周辺地域の様子や被害を記録した史料として,『浅間文書纂』に掲載された「大地震富士山焼出之事」がある.宝永4年10月4日に発生した宝永地震本震と翌日(10月5日)午前6時頃に大宮近くで発生した大きな余震, 11月23日の富士山噴火が記されている.この史料の課題として,破損のため,元禄地震時の詳細について知ることが出来ないことが挙げられる.また,同じく破損のため翌朝の余震の発生日時についても推定に留まっている.
『浅間文書纂』に掲載され,元禄地震・宝永地震・宝永富士山噴火を記した「当山本宮記 大宮年表 公文所旧記」(以下「当山本宮記」)に注目した.この史料は『新収日本地震史料』に分割して掲載されているが,富士山噴火の箇所について掲載されていない.元禄地震については,「当山本宮記」では「大地震」と書かれているだけで,大宮では大きな被害は無かったと考えられる.宝永地震の発生日時は,「当山本宮記」では11月5日申ノ刻となっている.一方,「大地震富士山焼出之事」では10月4日昼七ツ上刻と書かれている.発生日が異なる原因として「当山本宮記」の書写年が明治9年(1876)と宝永地震の発生から170年も経過していること,「当山本宮記」が2次史料であることが考えられる.
「当山本宮記」写本の元史料を探した結果,天理大学附属図書館において「当山当社之伝記」原本・写本を見出した.また,宝永地震の1次史料である「駿州富士本宮浅間本社并堂塔諸末社等之目録」を富士山本宮浅間大社において調査した.その結果,「当山本宮記」に記されたこの食い違いについて, 11月は「当山当社之伝記」からの抜抄書写時に生じ,5日は元史料そのものの作成時あるいは元史料からの抜抄書写時に生じた間違いと推定される.大宮では宝永地震本震は10月4日申刻(昼七ツ上刻)に,余震は10月5日辰刻に体感された,と推定できる.
『浅間文書纂』に掲載され,元禄地震・宝永地震・宝永富士山噴火を記した「当山本宮記 大宮年表 公文所旧記」(以下「当山本宮記」)に注目した.この史料は『新収日本地震史料』に分割して掲載されているが,富士山噴火の箇所について掲載されていない.元禄地震については,「当山本宮記」では「大地震」と書かれているだけで,大宮では大きな被害は無かったと考えられる.宝永地震の発生日時は,「当山本宮記」では11月5日申ノ刻となっている.一方,「大地震富士山焼出之事」では10月4日昼七ツ上刻と書かれている.発生日が異なる原因として「当山本宮記」の書写年が明治9年(1876)と宝永地震の発生から170年も経過していること,「当山本宮記」が2次史料であることが考えられる.
「当山本宮記」写本の元史料を探した結果,天理大学附属図書館において「当山当社之伝記」原本・写本を見出した.また,宝永地震の1次史料である「駿州富士本宮浅間本社并堂塔諸末社等之目録」を富士山本宮浅間大社において調査した.その結果,「当山本宮記」に記されたこの食い違いについて, 11月は「当山当社之伝記」からの抜抄書写時に生じ,5日は元史料そのものの作成時あるいは元史料からの抜抄書写時に生じた間違いと推定される.大宮では宝永地震本震は10月4日申刻(昼七ツ上刻)に,余震は10月5日辰刻に体感された,と推定できる.