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[SVC40-01] 2017年インドネシアアグン山警報での避難行動と1963年避難体験
キーワード:アグン山、避難行動、災害経験
はじめに
アグン山はインドネシアバリ島の北東部に位置する成層火山である。1963年から1964年にかけての噴火で,千名を越える死者があった (Self & Rampin, 2012)。インドネシア火山地質災害対策局(PVMBG)がハザードマップを公表しており,国家防災庁(BNPB)が避難域を設定する。
本論では、2017年9月の噴火警報において,警戒レベルで想定される避難対象者数の約2倍の住民が避難行動をとったこと, 1963年の噴火記憶について着目した。
カランガセム県内避難と1963年噴火経験者の記憶
2017年12月4日にジュングタン村(アグン山山頂から南に約12kmまでの山麓地域)の1963年噴火体験者より聞き取りを行った。「ラファ―」は熱い岩とガスの流れ(火砕流),「ラハール」は熱くない岩と泥の流れ(泥流)と,使い分けていたが,溶岩は「アスファルトのようなもの」と表現していた。
最も山頂に近い山腹バンジャールからの避難者で,1963年当時小学6年生だった長老3名より聞き取りを行った。川があふれて目の前のものすべてが流された。最初の流れは熱くなかった。雨に当たると肌がかゆくなった。その後,石が鳥のように飛んでいるのをみて,火山が噴火したことに気付いた。川にアスファルトのようなものが流れ,舗装されたようになった。それから木鐘の音が響き,皆パニック状態でばらばらになりつつも,牛などの家畜を連れ、お供え道具も持って避難先に向かった。バンジャール長の案内で,ジュングタン村民が集まる避難所に到着した。避難所でも地震を感じた。種まきのため避難所から一時帰宅した。避難所には6カ月ほどいた。2017年9月19日に政府より避難についての事前連絡を受け,9月22日にバンジャール435名全員が政府の手配したトラックでシブタン村に避難した。噴火が開始前の避難,避難の事前連絡,避難用トラックの手配,避難先の手配すべてについて,政府の対応を高く評価していた。
山麓在住のヒンズー教寺院関係者は,11歳の時に1963年の噴火を体験していた。記憶によると、1963年の中秋節の頃,噴火が始まった。火山灰の噴出の少し後に噴火の音を聞き,真っ赤な石が飛ぶのを見、続いて小石が降ってきた。噴火直後には避難せず,川の泥流をみて避難が決まった。バンジャール長が木鐘をたたいて住民に避難を知らせた。実際に避難ができたのは、泥流の流れがおさまった時である。避難先は決まっていなかったが,高いところが良いと聞き,徒歩15分ほどのシベタン村の高台にバンジャール民がそれぞれに向かった。避難後,地域の多くの家畜が熱死したが、自宅の家畜は生き残っていたので、通う必要があった。まだ熱いが少し冷めた火砕流の上を,止まると沈んでしまうので、父親に「速く走れ」と言われながら命がけで速足で歩いた。避難所生活は約1年におよんだ。2017年 9月22日の警報時,避難先について地方政府から世帯主の集まりに情報が伝えられた。この寺院の場所は火砕流・泥流到達危険域のため,高台のシブタン村(徒歩15分程度)に避難した。12月上旬時点では(11月26日からの噴火直後であったが),日中は自宅で,夜間は避難所で生活していた。1963年の経験と比較して,2017年の政府の情報発信・対応を高く評価していたが,避難所での生活には不便があり,携帯端末の早期警報アプリを活用しつつ,できる限り自宅で生活することを希望していた。
県外避難
2017年10月5-6日,12月2-5日に聞き取り調査を行った(久利ほか, 2018)。県外避難では1963年の噴火による移住者が呼びかけや支援を行う特徴を持っていた。
テンボク村は典型的な事例で,独自避難,親族宅避難,私設避難所,公設避難所が混在する。9月の避難対応では,村内75ヵ所で約7千人の避難者を受け入れたが,十分な知識もなくパニック状態であった。避難者・支援物資の出入りを十分に把握できず,物資の公平な分配が行えないことから苦情も多く,避難所運営に支障が生じた。中秋節を機に避難者が帰宅し,公設避難所をいったん閉鎖したが,11月下旬の噴火発生により再開した。避難所再開時は,当番制での避難所運営参加を避難者に義務付け,避難生活のルールなどを明文化し、原則,バンジャール(町内会)単位でテンボク村と契約を交わしての受け入れとし,円滑な避難所運営が行われていた。
まとめ
事前の避難訓練や避難計画策定はなかったが,日常よりバンジャール長の判断でバンジャール全体で行動する習慣があることと,年長者が1963年の噴火記憶を有していたことで,避難判断・避難行動ともに迅速に行われていた。山腹避難対象者へは9月の警報段階で、行政からの情報提供が住民まで伝わっていたが、山麓では自主避難者も多く、行政からの情報を十分に得ないまま避難行動が選択され、避難所運営にも支障があった可能性が高い。全域的な調査およびバンジャールごとの判断の詳細については今後の課題である。
アグン山はインドネシアバリ島の北東部に位置する成層火山である。1963年から1964年にかけての噴火で,千名を越える死者があった (Self & Rampin, 2012)。インドネシア火山地質災害対策局(PVMBG)がハザードマップを公表しており,国家防災庁(BNPB)が避難域を設定する。
本論では、2017年9月の噴火警報において,警戒レベルで想定される避難対象者数の約2倍の住民が避難行動をとったこと, 1963年の噴火記憶について着目した。
カランガセム県内避難と1963年噴火経験者の記憶
2017年12月4日にジュングタン村(アグン山山頂から南に約12kmまでの山麓地域)の1963年噴火体験者より聞き取りを行った。「ラファ―」は熱い岩とガスの流れ(火砕流),「ラハール」は熱くない岩と泥の流れ(泥流)と,使い分けていたが,溶岩は「アスファルトのようなもの」と表現していた。
最も山頂に近い山腹バンジャールからの避難者で,1963年当時小学6年生だった長老3名より聞き取りを行った。川があふれて目の前のものすべてが流された。最初の流れは熱くなかった。雨に当たると肌がかゆくなった。その後,石が鳥のように飛んでいるのをみて,火山が噴火したことに気付いた。川にアスファルトのようなものが流れ,舗装されたようになった。それから木鐘の音が響き,皆パニック状態でばらばらになりつつも,牛などの家畜を連れ、お供え道具も持って避難先に向かった。バンジャール長の案内で,ジュングタン村民が集まる避難所に到着した。避難所でも地震を感じた。種まきのため避難所から一時帰宅した。避難所には6カ月ほどいた。2017年9月19日に政府より避難についての事前連絡を受け,9月22日にバンジャール435名全員が政府の手配したトラックでシブタン村に避難した。噴火が開始前の避難,避難の事前連絡,避難用トラックの手配,避難先の手配すべてについて,政府の対応を高く評価していた。
山麓在住のヒンズー教寺院関係者は,11歳の時に1963年の噴火を体験していた。記憶によると、1963年の中秋節の頃,噴火が始まった。火山灰の噴出の少し後に噴火の音を聞き,真っ赤な石が飛ぶのを見、続いて小石が降ってきた。噴火直後には避難せず,川の泥流をみて避難が決まった。バンジャール長が木鐘をたたいて住民に避難を知らせた。実際に避難ができたのは、泥流の流れがおさまった時である。避難先は決まっていなかったが,高いところが良いと聞き,徒歩15分ほどのシベタン村の高台にバンジャール民がそれぞれに向かった。避難後,地域の多くの家畜が熱死したが、自宅の家畜は生き残っていたので、通う必要があった。まだ熱いが少し冷めた火砕流の上を,止まると沈んでしまうので、父親に「速く走れ」と言われながら命がけで速足で歩いた。避難所生活は約1年におよんだ。2017年 9月22日の警報時,避難先について地方政府から世帯主の集まりに情報が伝えられた。この寺院の場所は火砕流・泥流到達危険域のため,高台のシブタン村(徒歩15分程度)に避難した。12月上旬時点では(11月26日からの噴火直後であったが),日中は自宅で,夜間は避難所で生活していた。1963年の経験と比較して,2017年の政府の情報発信・対応を高く評価していたが,避難所での生活には不便があり,携帯端末の早期警報アプリを活用しつつ,できる限り自宅で生活することを希望していた。
県外避難
2017年10月5-6日,12月2-5日に聞き取り調査を行った(久利ほか, 2018)。県外避難では1963年の噴火による移住者が呼びかけや支援を行う特徴を持っていた。
テンボク村は典型的な事例で,独自避難,親族宅避難,私設避難所,公設避難所が混在する。9月の避難対応では,村内75ヵ所で約7千人の避難者を受け入れたが,十分な知識もなくパニック状態であった。避難者・支援物資の出入りを十分に把握できず,物資の公平な分配が行えないことから苦情も多く,避難所運営に支障が生じた。中秋節を機に避難者が帰宅し,公設避難所をいったん閉鎖したが,11月下旬の噴火発生により再開した。避難所再開時は,当番制での避難所運営参加を避難者に義務付け,避難生活のルールなどを明文化し、原則,バンジャール(町内会)単位でテンボク村と契約を交わしての受け入れとし,円滑な避難所運営が行われていた。
まとめ
事前の避難訓練や避難計画策定はなかったが,日常よりバンジャール長の判断でバンジャール全体で行動する習慣があることと,年長者が1963年の噴火記憶を有していたことで,避難判断・避難行動ともに迅速に行われていた。山腹避難対象者へは9月の警報段階で、行政からの情報提供が住民まで伝わっていたが、山麓では自主避難者も多く、行政からの情報を十分に得ないまま避難行動が選択され、避難所運営にも支障があった可能性が高い。全域的な調査およびバンジャールごとの判断の詳細については今後の課題である。