[MIS17-P13] 江戸時代後期の北上川における自然災害と社会
キーワード:北上川、流域史、江戸時代、古文書分析、仙台藩
本報告では、かつての仙台藩領である宮城県および岩手県南部に残された古文書史料を分析し、主に江戸時代後期の北上川で起こった洪水その他の自然災害の発生状況について改めて確認する。その上で、それらの事象が流域の社会に与えた影響について、生業や生活環境の面から考察する。
日本有数の大河である北上川の、江戸時代における洪水発生の状況については、東北地方整備局岩手県工事事務所『北上川』において、岩手県内の年代記資料に基づき概観されている。北上川での歴史災害に関する先駆的な成果として現在でも活用されているものの、下流域である宮城県での状況については体系的な整理がなされていない。江戸時代の北上川流域全体での水害の程度、範囲に関する史実の確定自体が、依然として課題だといえる。そのことは、文献史学における自然環境の影響を踏まえた研究はもちろん、さらに理系分野での各種データとの照合・解釈のための基礎的環境の整備という観点からも必須の作業である。もちろん関連史料の「完全な発掘」は遠い課題であるが、今回はかつての仙台藩領で確認した2100頁におよぶ日記史料「丸吉皆川家日誌」などの新史料も活用しつつ、水害の基礎的な状況を確認し、また人間社会への影響について考察したい。
江戸時代後期、特に18世紀末以降の北上川では、しばしば大規模な洪水が発生していた。「丸吉皆川家日誌」から、19世紀前半の水害記事を確認すると、寛政三年十月十六日(グレゴリオ暦1790年12月16日)の大雨、享和二年六月二九日(1802年7月28日)大雨・大洪水、文政十年十一月十三日(1827年12月30日)~十八日雨天、天保六年閏七月七日(1835年8月30日)嵐・大雨、天保七年八月十六日(1836年9月26日)~十七日大雨・少々風、天保七年十月十六日(1836年12月23日) 同夜大雨・大風休みなし、天保八年六月九日(1837年7月11日)~十一日大雨、天保九年三月二日(1838年3月27日)、天保一〇年六月二日(1839年7月2日)~三日、天保十一年七月十八日(1840年8月15日)~十九日となっている。天保年間(1830~44)には大凶作をもたらす一因となった冷夏が続いた影響か、台風に伴うと思われる大雨による水害が毎年続いていた。一方で重要なのは、冬期にしばしば大洪水が発生していることである。寛政三年の水害では、北上川の河岸場であった磐井郡黄海(岩手県一関市)の移転が起こっていた。夏期だけでなく、年間の気象状況について復元し、洪水の全容を解明する必要があろう。
一方、北上川の洪水については気象現象に加え、人間の自然への働きかけが被害を拡大した可能性もあった。19世紀前半の仙台藩においては、燃料や建材の旺盛な需要により山林の荒廃が進み、土砂流入による河底の上昇が洪水を頻発させたという藩官僚の報告書が残されている。報告者の高橋美貴が明らかにしたように、「川様無然」というキーワードが創出され、藩官僚、さらには地域側にも問題として共有されるようになっていた。また、北上川河口の桃生郡名振浜に残されていたサケの水揚帳の分析からは、この時期においてしばしば濁水の漁場への流入を示す記事があり、漁場環境の悪化が示唆されている。また、天保六年閏七月の洪水は、仙台城下町にも浸水被害をもたらし、当時進行していた政治改革を頓挫させる一因ともなった。北上川に洪水をもたらした自然現象は、生業、さらには政治にも大きな影響を与えていたのである。
今後は、当該期の雨量、川の流量、台風の到来、自然現象の復元を、理系分野のデータも活用しつつ行うことにより、より厳密な自然環境の復元を行い得ると考えられる。そのとは、古文書の解釈が基本となる文献史学において、その背景となる状況把握への厳密性を与え、新たな分析視角を獲得できる可能性があると考えている。
日本有数の大河である北上川の、江戸時代における洪水発生の状況については、東北地方整備局岩手県工事事務所『北上川』において、岩手県内の年代記資料に基づき概観されている。北上川での歴史災害に関する先駆的な成果として現在でも活用されているものの、下流域である宮城県での状況については体系的な整理がなされていない。江戸時代の北上川流域全体での水害の程度、範囲に関する史実の確定自体が、依然として課題だといえる。そのことは、文献史学における自然環境の影響を踏まえた研究はもちろん、さらに理系分野での各種データとの照合・解釈のための基礎的環境の整備という観点からも必須の作業である。もちろん関連史料の「完全な発掘」は遠い課題であるが、今回はかつての仙台藩領で確認した2100頁におよぶ日記史料「丸吉皆川家日誌」などの新史料も活用しつつ、水害の基礎的な状況を確認し、また人間社会への影響について考察したい。
江戸時代後期、特に18世紀末以降の北上川では、しばしば大規模な洪水が発生していた。「丸吉皆川家日誌」から、19世紀前半の水害記事を確認すると、寛政三年十月十六日(グレゴリオ暦1790年12月16日)の大雨、享和二年六月二九日(1802年7月28日)大雨・大洪水、文政十年十一月十三日(1827年12月30日)~十八日雨天、天保六年閏七月七日(1835年8月30日)嵐・大雨、天保七年八月十六日(1836年9月26日)~十七日大雨・少々風、天保七年十月十六日(1836年12月23日) 同夜大雨・大風休みなし、天保八年六月九日(1837年7月11日)~十一日大雨、天保九年三月二日(1838年3月27日)、天保一〇年六月二日(1839年7月2日)~三日、天保十一年七月十八日(1840年8月15日)~十九日となっている。天保年間(1830~44)には大凶作をもたらす一因となった冷夏が続いた影響か、台風に伴うと思われる大雨による水害が毎年続いていた。一方で重要なのは、冬期にしばしば大洪水が発生していることである。寛政三年の水害では、北上川の河岸場であった磐井郡黄海(岩手県一関市)の移転が起こっていた。夏期だけでなく、年間の気象状況について復元し、洪水の全容を解明する必要があろう。
一方、北上川の洪水については気象現象に加え、人間の自然への働きかけが被害を拡大した可能性もあった。19世紀前半の仙台藩においては、燃料や建材の旺盛な需要により山林の荒廃が進み、土砂流入による河底の上昇が洪水を頻発させたという藩官僚の報告書が残されている。報告者の高橋美貴が明らかにしたように、「川様無然」というキーワードが創出され、藩官僚、さらには地域側にも問題として共有されるようになっていた。また、北上川河口の桃生郡名振浜に残されていたサケの水揚帳の分析からは、この時期においてしばしば濁水の漁場への流入を示す記事があり、漁場環境の悪化が示唆されている。また、天保六年閏七月の洪水は、仙台城下町にも浸水被害をもたらし、当時進行していた政治改革を頓挫させる一因ともなった。北上川に洪水をもたらした自然現象は、生業、さらには政治にも大きな影響を与えていたのである。
今後は、当該期の雨量、川の流量、台風の到来、自然現象の復元を、理系分野のデータも活用しつつ行うことにより、より厳密な自然環境の復元を行い得ると考えられる。そのとは、古文書の解釈が基本となる文献史学において、その背景となる状況把握への厳密性を与え、新たな分析視角を獲得できる可能性があると考えている。