[O08-P26] いくつかのジオパークにおける大名の墓に使用されている石材
-山陰海岸、島根半島・宍道湖中海、萩ジオパーク-
キーワード:花崗岩、ジオパーク、石造物、帯磁率
歴史的な石造物の中で製作年の明らかな石材について、その産地を同定することは過去の流通経路や経済圏などの変遷を知る手掛かりとなる。その中で大名の墓所には多数の墓石が存在し、それぞれに年号が入れられているため、年代ごとの使用石材の変遷が分かる。また、その大名家ごとに似たコンセプトで造られ、それによって石材の種類にもある程度まとまりが見られる傾向がある。中国地方の日本海沿岸にあたる山陰海岸ジオパーク、島根半島・宍道湖中海ジオパーク、萩ジオパークは、それぞれに大名の墓所を有し、当時の流通などを考えるときに重要な位置づけとなる。そこで、これらについてその産地推定のための調査を行った。
なお、石造物の石材を同定するためには非破壊での検討が必要となるため、帯磁率の測定と岩相の記載によって産地の推定を行った。
山陰海岸ジオパークでは、鳥取藩主池田家の墓所があり、初代光仲(1693年没)から11代慶栄(1850年没)までの藩主が祀られている。これらの墓は亀の形をした台の上に板状の碑が建てられている。これらの多くはカリ長石が白色の中粒黒雲母花崗岩からなる。帯磁率は0.1×10-3SI以下の低帯磁率を有する。鳥取県教育委員会によると、これらの多くは鳥取市南部の用瀬地域の花崗岩石材とされている。用瀬花崗岩は山陰帯には希なチタン鉄鉱系花崗岩であり(Ishihara, 1984;先山, 1986・2005)、岩相もよく似ている。このことから多くの石材は用瀬花崗岩起源と考えられるが、一部亀の部分は帯磁率が2~3×10-3SI程度の花崗岩が存在する。これらはカリ長石が桃色を呈し、六甲花崗岩と類似する。これらの時代的変遷は不明瞭であった。
島根半島・宍道湖中海ジオパークでは、松江市の月照寺に松江藩主の初代松平直政(1666年没)から9代斉貴(1863年没)までの墓が存在する。これらのうち初代から4代𠮷透(1705年没)の墓石は全て0.1×10-3SI程度の低帯磁率を有する粗粒黒雲母花崗岩である。これらと同様の岩石は松江周辺の山陽帯では見出されず、むしろ山陽帯の花崗岩に類似する。カリ長石が白色を呈する点も含めて考えると小豆島や北木島などの瀬戸内島嶼部の可能性が高い。それに対して5代目の宣維(1731年没)以降9代目斉貴までは全て同様の見かけの角閃石黒雲母花崗閃緑岩で苦鉄質包有岩を多く含む。帯磁率は17~21×10-3SI程度で山陰帯の花崗閃緑岩に相当する。山地を特定するには至らなかったが、4代目と5代目の境界である18世紀初頭に石材産地が山陽帯から地元である山陰帯に変化したと考えられる。
萩ジオパーク東部の須佐では、益田氏の20代元祥(1640年没)から33代親施(1864年)までの墓が存在する。益田氏は萩へ移動する前は益田市を拠点としていたため、これ以前の墓は益田市にある。益田市にある益田氏の墓は11代兼見(1392年没)から19代藤兼(1597年没)までのものがあり、これまでの調査でそれらの大部分は六甲山の花崗岩であることが知られている(市村編,2013)。その後に続く須佐の墓は、年代によって石材がばらつき、21・22・27・28代は主体が六甲花崗岩であるのに対し、20・29・30・31・32・33代は帯磁率が低い黒雲母花崗岩である。萩市の場合、萩城近くの指月山に採石場の跡が残されており、これらは帯磁率が低い山陽帯の花崗岩である。萩城の石垣を構成する岩石の大部分がこの産地からのものであり、毛利家墓所の岩石の大部分も指月山の花崗岩である。これらのことから、当初は六甲山の花崗岩の利用が多かったが、次第に地元の岩石の利用へ移り変わっていったことを示している。
山陰海岸、島根半島・宍道湖中海、萩の各ジオパークを見る限り、全体的な傾向として瀬戸内地域の花崗岩の利用から地元の花崗岩の利用へと移り変わる傾向が見られた。それは山陰地域における加工技術の進歩に依存するものなのかもしれない。
なお、石造物の石材を同定するためには非破壊での検討が必要となるため、帯磁率の測定と岩相の記載によって産地の推定を行った。
山陰海岸ジオパークでは、鳥取藩主池田家の墓所があり、初代光仲(1693年没)から11代慶栄(1850年没)までの藩主が祀られている。これらの墓は亀の形をした台の上に板状の碑が建てられている。これらの多くはカリ長石が白色の中粒黒雲母花崗岩からなる。帯磁率は0.1×10-3SI以下の低帯磁率を有する。鳥取県教育委員会によると、これらの多くは鳥取市南部の用瀬地域の花崗岩石材とされている。用瀬花崗岩は山陰帯には希なチタン鉄鉱系花崗岩であり(Ishihara, 1984;先山, 1986・2005)、岩相もよく似ている。このことから多くの石材は用瀬花崗岩起源と考えられるが、一部亀の部分は帯磁率が2~3×10-3SI程度の花崗岩が存在する。これらはカリ長石が桃色を呈し、六甲花崗岩と類似する。これらの時代的変遷は不明瞭であった。
島根半島・宍道湖中海ジオパークでは、松江市の月照寺に松江藩主の初代松平直政(1666年没)から9代斉貴(1863年没)までの墓が存在する。これらのうち初代から4代𠮷透(1705年没)の墓石は全て0.1×10-3SI程度の低帯磁率を有する粗粒黒雲母花崗岩である。これらと同様の岩石は松江周辺の山陽帯では見出されず、むしろ山陽帯の花崗岩に類似する。カリ長石が白色を呈する点も含めて考えると小豆島や北木島などの瀬戸内島嶼部の可能性が高い。それに対して5代目の宣維(1731年没)以降9代目斉貴までは全て同様の見かけの角閃石黒雲母花崗閃緑岩で苦鉄質包有岩を多く含む。帯磁率は17~21×10-3SI程度で山陰帯の花崗閃緑岩に相当する。山地を特定するには至らなかったが、4代目と5代目の境界である18世紀初頭に石材産地が山陽帯から地元である山陰帯に変化したと考えられる。
萩ジオパーク東部の須佐では、益田氏の20代元祥(1640年没)から33代親施(1864年)までの墓が存在する。益田氏は萩へ移動する前は益田市を拠点としていたため、これ以前の墓は益田市にある。益田市にある益田氏の墓は11代兼見(1392年没)から19代藤兼(1597年没)までのものがあり、これまでの調査でそれらの大部分は六甲山の花崗岩であることが知られている(市村編,2013)。その後に続く須佐の墓は、年代によって石材がばらつき、21・22・27・28代は主体が六甲花崗岩であるのに対し、20・29・30・31・32・33代は帯磁率が低い黒雲母花崗岩である。萩市の場合、萩城近くの指月山に採石場の跡が残されており、これらは帯磁率が低い山陽帯の花崗岩である。萩城の石垣を構成する岩石の大部分がこの産地からのものであり、毛利家墓所の岩石の大部分も指月山の花崗岩である。これらのことから、当初は六甲山の花崗岩の利用が多かったが、次第に地元の岩石の利用へ移り変わっていったことを示している。
山陰海岸、島根半島・宍道湖中海、萩の各ジオパークを見る限り、全体的な傾向として瀬戸内地域の花崗岩の利用から地元の花崗岩の利用へと移り変わる傾向が見られた。それは山陰地域における加工技術の進歩に依存するものなのかもしれない。