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[HDS13-17] 慶長九年十二月十六日(1605Ⅱ3)地震の東海・四国・九州地方の津波被害
キーワード:慶長九年地震津波、歴史地震、歴史津波
慶長九年十二月十六日の夜に、日本列島の南方海域に発生した地震による津波の浸水高さを、古記録に記載された東海、四国、九州地方の15地点について現地を訪れ、GPSによる標高測量によって地盤高を測定し、津波浸水、あるいは遡上高さを推定した。房総半島における調査はすでに筆者らが報告した(都司ら2018)。
1.静岡県西伊豆町仁科では『佐波神社上梁文』を引用した『増訂豆州志稿』に「仁科郷海溢レテ陸地ヲ浸ス事凡十二三町」の記載から、仁科川の河口から1.4kmの寺川集落付近の畑地の標高を測定してTP8.9mを得た。この数値をここでの遡上高さとする。2.静岡県湖西市新居町橋本では、『当代記』に「橋本ニ家百間程有所ニ八十間計潮引テ行」とあり、橋本での標高4.5mに家屋流失率80%に相当する地上冠水2.7mを加えた(今井ら、2016)8.2mをここでの浸水高さとする。3.静岡県湖西市白須賀では『羅山先生文集』に「去歳地震、水漲湯々、溺人家、殺牛馬」の記載がある。白須賀宿元町市街地の最下点の標高6.9mに、半数程度の家屋流失があったとすれば地上冠水2.5mほどでであったとしてここでの浸水高さは9.4mとなる。4.愛知県田原市堀切では『常光寺年代記』に「ナイシツツ打波浜之船皆打破也アミナカス」と記され、3m程度の津波と推定される。5.高知県室戸市佐喜浜では談義所の僧・阿闍梨暁印の『置文写』に「潮入所ハ談義所之履脱迄,(中略)八幡宮の御権前高欄迄」と記録している.この「談義所」は現在の大日寺の本堂である.GPS測量で本堂前の参道の標高13.9mを得た.「靴脱石」上面はこれより0.6m上方にあると推定して,浸水高14.4mを得た.6.高知県室戸市津呂については、『置文写』に,「隣在所を聞くに,西寺東寺の麓の浦分にも男女四百人余死す」と記されている.この文に言う「東寺」は室戸岬背後の丘陵上の四国24番最御崎寺(ほつみさきじ)を指す.その麓の浦分とは室戸市津呂を指す(『高知県の地名』,平凡社,1983).GPS測量で津呂の市街地標高8.4mを得たが,地上冠水3.0mとして,浸水高を11.4mとする.7.浮津。「西寺(26番金剛頂寺)の麓の浦分」とは浮津のことである.市街地標高は7.4mと測定され,地上冠水を3.0mとして津波浸水高は10.4mと推定される.8. 室戸市元。 宝永地震津波(1707)の土佐藩の記録『谷陵記』に,「慶長九年潮ヨリ六尺卑(ひく)シト云フ」と記されている.都司ら(2013)によると,宝永津波の元での浸水高は6.4mであるから,慶長津波の元での津波浸水高は8.2mと推定する.9. 高知県黒潮町佐賀では、当時崎浜にあった坂本家では長曾我部元親の文書が流失し、母を背負って城山に避難したと記録されており、地面標高3.2m, 家屋流失が想定していたされることから浸水高は6.2mと推定される。10. 土佐清水市三崎では津波によって153人が死亡した(『蒼屋雑記』)が、中心十字路の標高5.1mから浸水高8.1mと推定された。11.大分県佐伯市米水津では『米水津組浦代浦・成松庄屋文書』に宝永地震津波(1707)について,「浦白は養福寺までも汐差込,(中略)石壇二ツ計残り申候.(中略)浦白ニテ拾八人死ス(中略)」と記した後に,「其往古百年以前もケ様成汐満申候事,年寄たる人皆咄ニ承候間,能々心の用心可有候」と記されて居る.100年前にもこのようなことがあったと,年寄りたちは話している,というのである.これは慶長九年の津波のことに間違いあるまい.浸水高さ6.9mと推定された。以上の「浸水高」の推定値は最小値である。以上の成果を図に示す。
本研究は H25-32年度文部科学省「南海トラフ広域地震防災研究プロジェクト」(研究代表者:海洋研究開発機構 金田義行)の一環として行われました.ここに記して謝意を表します。
1.静岡県西伊豆町仁科では『佐波神社上梁文』を引用した『増訂豆州志稿』に「仁科郷海溢レテ陸地ヲ浸ス事凡十二三町」の記載から、仁科川の河口から1.4kmの寺川集落付近の畑地の標高を測定してTP8.9mを得た。この数値をここでの遡上高さとする。2.静岡県湖西市新居町橋本では、『当代記』に「橋本ニ家百間程有所ニ八十間計潮引テ行」とあり、橋本での標高4.5mに家屋流失率80%に相当する地上冠水2.7mを加えた(今井ら、2016)8.2mをここでの浸水高さとする。3.静岡県湖西市白須賀では『羅山先生文集』に「去歳地震、水漲湯々、溺人家、殺牛馬」の記載がある。白須賀宿元町市街地の最下点の標高6.9mに、半数程度の家屋流失があったとすれば地上冠水2.5mほどでであったとしてここでの浸水高さは9.4mとなる。4.愛知県田原市堀切では『常光寺年代記』に「ナイシツツ打波浜之船皆打破也アミナカス」と記され、3m程度の津波と推定される。5.高知県室戸市佐喜浜では談義所の僧・阿闍梨暁印の『置文写』に「潮入所ハ談義所之履脱迄,(中略)八幡宮の御権前高欄迄」と記録している.この「談義所」は現在の大日寺の本堂である.GPS測量で本堂前の参道の標高13.9mを得た.「靴脱石」上面はこれより0.6m上方にあると推定して,浸水高14.4mを得た.6.高知県室戸市津呂については、『置文写』に,「隣在所を聞くに,西寺東寺の麓の浦分にも男女四百人余死す」と記されている.この文に言う「東寺」は室戸岬背後の丘陵上の四国24番最御崎寺(ほつみさきじ)を指す.その麓の浦分とは室戸市津呂を指す(『高知県の地名』,平凡社,1983).GPS測量で津呂の市街地標高8.4mを得たが,地上冠水3.0mとして,浸水高を11.4mとする.7.浮津。「西寺(26番金剛頂寺)の麓の浦分」とは浮津のことである.市街地標高は7.4mと測定され,地上冠水を3.0mとして津波浸水高は10.4mと推定される.8. 室戸市元。 宝永地震津波(1707)の土佐藩の記録『谷陵記』に,「慶長九年潮ヨリ六尺卑(ひく)シト云フ」と記されている.都司ら(2013)によると,宝永津波の元での浸水高は6.4mであるから,慶長津波の元での津波浸水高は8.2mと推定する.9. 高知県黒潮町佐賀では、当時崎浜にあった坂本家では長曾我部元親の文書が流失し、母を背負って城山に避難したと記録されており、地面標高3.2m, 家屋流失が想定していたされることから浸水高は6.2mと推定される。10. 土佐清水市三崎では津波によって153人が死亡した(『蒼屋雑記』)が、中心十字路の標高5.1mから浸水高8.1mと推定された。11.大分県佐伯市米水津では『米水津組浦代浦・成松庄屋文書』に宝永地震津波(1707)について,「浦白は養福寺までも汐差込,(中略)石壇二ツ計残り申候.(中略)浦白ニテ拾八人死ス(中略)」と記した後に,「其往古百年以前もケ様成汐満申候事,年寄たる人皆咄ニ承候間,能々心の用心可有候」と記されて居る.100年前にもこのようなことがあったと,年寄りたちは話している,というのである.これは慶長九年の津波のことに間違いあるまい.浸水高さ6.9mと推定された。以上の「浸水高」の推定値は最小値である。以上の成果を図に示す。
本研究は H25-32年度文部科学省「南海トラフ広域地震防災研究プロジェクト」(研究代表者:海洋研究開発機構 金田義行)の一環として行われました.ここに記して謝意を表します。