[SGL28-P02] 小川盆地と周辺の跡倉ナップの地質と中新世中期以降のテクトニクス
キーワード:関東山地、小川盆地、中新世前期、跡倉ナップ、小園層、荒川層
関東山地の三波川帯では三波川ユニット,みかぶユニット,跡倉ナップとこの順に構造的下位から上位に重なる積層構造が認められる.跡倉ナップの分布域は,三波川変成岩類の上昇テクトニクスが顕著であるために限定的である.埼玉県の寄居-小川地域では跡倉ナップが広く露出しており(Figure 1),ナップの主要部分は現地性の地質体に囲まれている.その境界は象ケ鼻-朝日根断層や谷津断層や高谷断層などの高角断層である.跡倉ナップは小川盆地において下部中新統(約16Ma)の小園層の礫岩や砂によって不整合に被われている[1-3].中新統に被われた跡倉ナップは,地塊の差別的昇降運動を受けている.跡倉ナップの主要分布域に存在するみかぶユニットは,このテクトニクスによって上昇してきた地質体である.中新統はあまり隆起しなかったために侵食されずに残存した地質体である.
<地質> 小川盆地の西側部分について,緩傾斜(<10°)の中新統が分布している.基盤岩は野竹地域では寄居層,中央部地域では石英閃緑岩,飯田地域では跡倉層である.野竹地域には粗粒砂岩を挟む礫岩が分布しており,礫岩には花崗岩や火砕岩や領家片麻岩などの礫が非常に多い(Figure 1の赤丸).巨礫や大礫から成る礫層も存在し,礫の供給源は侵食されてしまった領家ナップ(Figure 1)で,ridge line rBの南方でridge line rCの北方に位置していたと推定される.跡倉ナップはみかぶユニットと領家ナップに挟まれた薄い板状の地質体である.礫岩層の最上部は秩父帯起源と推定されるチャートの小円礫に富み,その上に厚さ約3mの砂岩が重なる.砂岩の上には荒川層の泥岩が整合に重なる.その地点(標高約140m)での基盤岩の深度は不明であるが,砕屑物で埋め立てられた谷は深くないので,小園層の層厚は60-100mと推測される.野竹地域の北西部には小川盆地最北部の中新統が露出している.厚さ約10mの砂岩が寄居層を不整合で被う.砂岩の上には荒川層の泥岩が重なり,境界の標高は約140mである.
中央部地域の金勝山石英閃緑岩は,金勝山への旧登山口や兜川沿いなど各地で礫岩や砂岩や泥岩によって被われている[1,3].地点X(Figure 1, 標高約100m)では,小園層の礫岩や砂岩が石英閃緑岩を不整合で被っている[2,3].飯田地域の西端部では,礫岩や礫質砂岩や砂岩が標高の高い基盤岩近傍に分布し,泥岩は低地に分布している.砂岩や泥岩が同時期に堆積した可能性や小規模な高角断層(Figure 1A, C)が推定される.礫岩には古期岩類のチャートや砂岩や泥岩の小円礫が多い(Figure 1の黒丸).花崗岩礫は大変少ないが,基質部には長石の破片が多い.なお,小川盆地の中新統は標高約160m以下に分布するが,地点+では標高約200mに礫岩の小露頭が認められる.
Figure 1のA, B, Cは現在と荒川層の堆積時期ごろの南北方向の地質断面図である.小川盆地西側部分についての概念図である.中新世の断面図には現在の地表面が参考のために書き込まれている.中新世前期と現在の地表面および小園層の厚さの3要素に依存して,複数の中新世の地質断面図が想定可能である.Figure 1, Aは中新統堆積後の上昇テクトニクスが弱い場合の断面図で,Figure 1, B は上昇テクトニクスや傾動運動が小規模に起きている場合のものである.実際には不整合が各地に存在しており[1-3],中新世前期と現在の地表面は各地で近接している(Figure 1, C).
<テクトニクス> 小川盆地の西側部分の野竹地域では,泥岩の出現する標高がほぼ一定であり,大規模な地塊の差別的昇降運動(上昇テクトニクス)を小園層の堆積以降に想定することは不可能である.中央部地域では石英閃緑岩が中新統と断層で接しており,断層活動を伴う上昇テクトニクスが想定される.しかし,みかぶ緑色岩は露出していないうえに,小園層がかなり広く分布している[1].断層の変位量は,小園層の層厚をはるかに超えるような大きさではない.小川盆地東側部分の富士山地域では,跡倉ナップに囲まれたみかぶ緑色岩の小岩体が3ヶ所に露出している.しかし,中新世の礫質砂岩の小分布も認められるので,中新世中期以降の跡倉ナップの上昇テクトニクスを過大評価すべきではない.
<文献>[1]間嶋,1989,静大地球科学研報,no. 15, 1-24.[2]牧本・竹内,1992,寄居地域の地質.5万分の1地質図幅.[3]小川町,1999,小川町の自然 地質編.
<地質> 小川盆地の西側部分について,緩傾斜(<10°)の中新統が分布している.基盤岩は野竹地域では寄居層,中央部地域では石英閃緑岩,飯田地域では跡倉層である.野竹地域には粗粒砂岩を挟む礫岩が分布しており,礫岩には花崗岩や火砕岩や領家片麻岩などの礫が非常に多い(Figure 1の赤丸).巨礫や大礫から成る礫層も存在し,礫の供給源は侵食されてしまった領家ナップ(Figure 1)で,ridge line rBの南方でridge line rCの北方に位置していたと推定される.跡倉ナップはみかぶユニットと領家ナップに挟まれた薄い板状の地質体である.礫岩層の最上部は秩父帯起源と推定されるチャートの小円礫に富み,その上に厚さ約3mの砂岩が重なる.砂岩の上には荒川層の泥岩が整合に重なる.その地点(標高約140m)での基盤岩の深度は不明であるが,砕屑物で埋め立てられた谷は深くないので,小園層の層厚は60-100mと推測される.野竹地域の北西部には小川盆地最北部の中新統が露出している.厚さ約10mの砂岩が寄居層を不整合で被う.砂岩の上には荒川層の泥岩が重なり,境界の標高は約140mである.
中央部地域の金勝山石英閃緑岩は,金勝山への旧登山口や兜川沿いなど各地で礫岩や砂岩や泥岩によって被われている[1,3].地点X(Figure 1, 標高約100m)では,小園層の礫岩や砂岩が石英閃緑岩を不整合で被っている[2,3].飯田地域の西端部では,礫岩や礫質砂岩や砂岩が標高の高い基盤岩近傍に分布し,泥岩は低地に分布している.砂岩や泥岩が同時期に堆積した可能性や小規模な高角断層(Figure 1A, C)が推定される.礫岩には古期岩類のチャートや砂岩や泥岩の小円礫が多い(Figure 1の黒丸).花崗岩礫は大変少ないが,基質部には長石の破片が多い.なお,小川盆地の中新統は標高約160m以下に分布するが,地点+では標高約200mに礫岩の小露頭が認められる.
Figure 1のA, B, Cは現在と荒川層の堆積時期ごろの南北方向の地質断面図である.小川盆地西側部分についての概念図である.中新世の断面図には現在の地表面が参考のために書き込まれている.中新世前期と現在の地表面および小園層の厚さの3要素に依存して,複数の中新世の地質断面図が想定可能である.Figure 1, Aは中新統堆積後の上昇テクトニクスが弱い場合の断面図で,Figure 1, B は上昇テクトニクスや傾動運動が小規模に起きている場合のものである.実際には不整合が各地に存在しており[1-3],中新世前期と現在の地表面は各地で近接している(Figure 1, C).
<テクトニクス> 小川盆地の西側部分の野竹地域では,泥岩の出現する標高がほぼ一定であり,大規模な地塊の差別的昇降運動(上昇テクトニクス)を小園層の堆積以降に想定することは不可能である.中央部地域では石英閃緑岩が中新統と断層で接しており,断層活動を伴う上昇テクトニクスが想定される.しかし,みかぶ緑色岩は露出していないうえに,小園層がかなり広く分布している[1].断層の変位量は,小園層の層厚をはるかに超えるような大きさではない.小川盆地東側部分の富士山地域では,跡倉ナップに囲まれたみかぶ緑色岩の小岩体が3ヶ所に露出している.しかし,中新世の礫質砂岩の小分布も認められるので,中新世中期以降の跡倉ナップの上昇テクトニクスを過大評価すべきではない.
<文献>[1]間嶋,1989,静大地球科学研報,no. 15, 1-24.[2]牧本・竹内,1992,寄居地域の地質.5万分の1地質図幅.[3]小川町,1999,小川町の自然 地質編.