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[SSS15-03] 同時代史料による文禄五年閏七月九日(1596.9.1)の伊予・豊後地震
キーワード:1596年、伊予・豊後地震、史料批判、同時代史料、中央構造線断層帯
●文禄五年(十月二十七日に慶長と改元)閏七月に豊後国(大分県)に地震動・津波災害をもたらした地震の発生日については,九日(1596.9.1)と十二日(1596.9.4)の2説がある.『増訂大日本地震史料』は十二日とするが,石橋(1989)は九日19時頃と主張し,十二日としていた『日本被害地震総覧』も宇佐美(1996)から九日に変わった.しかし堤・他(2000)は,伊予国(愛媛県)の地震史料から,9月4日豊後地震とは別の伊予地震が9月1日に発生したことは間違いないとして,それが中央構造線活断層帯・川上断層の最新イベントの可能性があると述べた.松岡(2014),中西・弘瀬(2015),松崎・他(2017)も,閏七月十二日の豊後地震とは異なる九日の伊予地震を考えている.これらに対して本発表では,信頼性の高い同時代史料によれば,九日19時頃に,別府湾付近から伊予にかけてを震源域とする単一の「伊予・豊後地震」が発生したと考えられることを述べる.
●既刊の地震史料集には本地震について70点以上の史・資料が印刷されているが,史料価値は玉石混淆である.いわば「古い地震観測データによる歴史地震源の考究」においては,史料批判をおこない,信頼性の高い同時代史料だけを用いるべきである.「十二日」は,元禄十一年(1698)成立の『豊府聞書』が恐らく伏見地震(十二〜十三日深夜)と混同して以来,その後の多数の史・資料が踏襲したもので,信憑性は低い.16点の同時代史料の良質なテキストによる各地の状況は以下のとおりである.なお,同時代に成立した『イエズス会報告』と『日本王国記』は種々の問題があるので用いなかった.
京都:『言経卿記』が九日戌刻(19-21時頃)の地動を記し,『孝亮宿禰日次記』(今回初めて自筆原本を使用)は九日酉戌刻間(19時頃)に地震が「事の外」だったとする.
豊後:『由原宮年代略記』が九日戌刻に大地震で同社悉く転倒し,黄昏(たそがれ)時分に府中(大分市)に大津波があったと記す.『興導寺大般若経奥書』と『柴山勘兵衛記』も九日の大地震と府中の大津波を伝える.『玄与日記』は「去七月十二日之地震之時」(たぶん"閏"が脱)として,かみの関(大分市佐賀関;松崎・平井,2014)の大津波の伝聞を記すが,この記事には問題があって津波が十二日だったかどうかわからない(松岡,2017;榎原・村田,2018).
安芸(広島県):廿日市市と厳島神社では,『穂田元清書状』によって九日夜に大地震があったが損傷がなかったことがわかる.『仏通禅寺住持記』によれば,三原市でも九日から十二日まで大地震が続いた.『毛利元就書状』によれば,日時不明だが広島も強く揺れたが破損はなかった.
伊予:松山市の『薬師寺大般若経奥書』に,九日に強震動があって国中が迷惑とあり,広範囲で被害があったことを示唆する.中西(2002)が,江戸時代の編纂史料だが,松山市・西条市で九日戌刻の地震により寺社の倒壊・土地の陥没・集落移転の被害があったことを報告している.
薩摩・大隅(鹿児島県):『樺山紹剱自記』が九日に大地震があったと記す.『帖佐屋地書状』は八日から少なくとも廿九日まで地震が続いたと書いており,八日は記憶違いかもしれないが帖佐(姶良市)では地震を感じたのかもしれない(西尾,2018).『南航日記残簡』は鹿児島で,九日の地震,十二日の大地震と夜の地震,十三日の大地震を記す.榎原・村田(2018)は十二日に九州南部で別の地震が起きたかもしれないとするが,本発表では触れない.
●以上から,九日に各地に地震動があった.時間が不明な所もあるが,夜か,19〜21時,19時頃である.史料地震学の原則として,明確な反証や理由がない限り,これらを同一の地震源によると考える.震度は,大分と松山・東予が所によって6強程度,廿日市・厳島・広島・三原が4程度,京都が3の強いほう,鹿児島付近が3程度と推定される.当時の時刻精度の粗さと大分の9月1日の日没時刻(18時40分頃)も考慮すれば,最も単純で合理的な推定は,九日の19時頃に大分付近〜伊予に震源域をもつ単一の「伊予・豊後地震」が発生して直後に津波を生じたことである.別府湾から西条市付近までだと震源域が約150kmもあってM8級となるが,震源破壊伝播の効果も考えればもっと短くてよいかもしれない(M7.5級).M7.3の兵庫県南部地震で震源域から40 km前後の姫路や和歌山が震度4だったから,伊予・豊後地震で広島県が震度4でも不思議ではない.更なる検討が必要だが,西条市で地盤沈下が生じた(中西,2002)とすれば,北落右横ずれの川上断層の活動もあったかもしれない.伊予・豊後と伏見の2地震は中央構造線断層帯の活動を含んで関連していて,その後の南海トラフの地震発生に影響を与えた可能性がある(石橋,1989a,2014).
●既刊の地震史料集には本地震について70点以上の史・資料が印刷されているが,史料価値は玉石混淆である.いわば「古い地震観測データによる歴史地震源の考究」においては,史料批判をおこない,信頼性の高い同時代史料だけを用いるべきである.「十二日」は,元禄十一年(1698)成立の『豊府聞書』が恐らく伏見地震(十二〜十三日深夜)と混同して以来,その後の多数の史・資料が踏襲したもので,信憑性は低い.16点の同時代史料の良質なテキストによる各地の状況は以下のとおりである.なお,同時代に成立した『イエズス会報告』と『日本王国記』は種々の問題があるので用いなかった.
京都:『言経卿記』が九日戌刻(19-21時頃)の地動を記し,『孝亮宿禰日次記』(今回初めて自筆原本を使用)は九日酉戌刻間(19時頃)に地震が「事の外」だったとする.
豊後:『由原宮年代略記』が九日戌刻に大地震で同社悉く転倒し,黄昏(たそがれ)時分に府中(大分市)に大津波があったと記す.『興導寺大般若経奥書』と『柴山勘兵衛記』も九日の大地震と府中の大津波を伝える.『玄与日記』は「去七月十二日之地震之時」(たぶん"閏"が脱)として,かみの関(大分市佐賀関;松崎・平井,2014)の大津波の伝聞を記すが,この記事には問題があって津波が十二日だったかどうかわからない(松岡,2017;榎原・村田,2018).
安芸(広島県):廿日市市と厳島神社では,『穂田元清書状』によって九日夜に大地震があったが損傷がなかったことがわかる.『仏通禅寺住持記』によれば,三原市でも九日から十二日まで大地震が続いた.『毛利元就書状』によれば,日時不明だが広島も強く揺れたが破損はなかった.
伊予:松山市の『薬師寺大般若経奥書』に,九日に強震動があって国中が迷惑とあり,広範囲で被害があったことを示唆する.中西(2002)が,江戸時代の編纂史料だが,松山市・西条市で九日戌刻の地震により寺社の倒壊・土地の陥没・集落移転の被害があったことを報告している.
薩摩・大隅(鹿児島県):『樺山紹剱自記』が九日に大地震があったと記す.『帖佐屋地書状』は八日から少なくとも廿九日まで地震が続いたと書いており,八日は記憶違いかもしれないが帖佐(姶良市)では地震を感じたのかもしれない(西尾,2018).『南航日記残簡』は鹿児島で,九日の地震,十二日の大地震と夜の地震,十三日の大地震を記す.榎原・村田(2018)は十二日に九州南部で別の地震が起きたかもしれないとするが,本発表では触れない.
●以上から,九日に各地に地震動があった.時間が不明な所もあるが,夜か,19〜21時,19時頃である.史料地震学の原則として,明確な反証や理由がない限り,これらを同一の地震源によると考える.震度は,大分と松山・東予が所によって6強程度,廿日市・厳島・広島・三原が4程度,京都が3の強いほう,鹿児島付近が3程度と推定される.当時の時刻精度の粗さと大分の9月1日の日没時刻(18時40分頃)も考慮すれば,最も単純で合理的な推定は,九日の19時頃に大分付近〜伊予に震源域をもつ単一の「伊予・豊後地震」が発生して直後に津波を生じたことである.別府湾から西条市付近までだと震源域が約150kmもあってM8級となるが,震源破壊伝播の効果も考えればもっと短くてよいかもしれない(M7.5級).M7.3の兵庫県南部地震で震源域から40 km前後の姫路や和歌山が震度4だったから,伊予・豊後地震で広島県が震度4でも不思議ではない.更なる検討が必要だが,西条市で地盤沈下が生じた(中西,2002)とすれば,北落右横ずれの川上断層の活動もあったかもしれない.伊予・豊後と伏見の2地震は中央構造線断層帯の活動を含んで関連していて,その後の南海トラフの地震発生に影響を与えた可能性がある(石橋,1989a,2014).