JpGU-AGU Joint Meeting 2020

講演情報

[J] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-IS ジョイント

[M-IS28] 歴史学×地球惑星科学

コンビーナ:加納 靖之(東京大学地震研究所)、磯部 洋明(京都市立芸術大学美術学部)、芳村 圭(東京大学生産技術研究所)、岩橋 清美(国文学研究資料館)

[MIS28-02] 比叡山周辺地域にみる1830年京都地震・1854年伊賀上野地震の被害状況の分析

*岩橋 清美1加納 靖之2大邑 潤三2 (1.国文学研究資料館、2.東京大学地震研究所)

キーワード:文政京都地震、1854年伊賀上野地震、比叡山

本研究では叡山文庫所蔵の日記史料を用いて1830年京都地震と1854伊賀上野地震における比叡山地域の被害状況を分析を行った。叡山文庫には比叡山三塔諸堂の日記が1650年代から残されており、これらの記述の比較により地震発生時における比叡山周辺の上坂本村・下坂本村・比叡辻村の状況を明らかにできるという地点がある。日記史料から抽出した情報と地盤条件を照合することで、比叡山周辺という限定された地域の震度分布を推定することができた。文政京都地震は、1830年8月19日に発生した内型地震で、京都御所の築地塀や二条城の石垣が崩れ、町人地では土蔵の倒壊も多く見られたことが指摘されている。比叡山地域の被害状況は 本地震における比叡山周辺の被害状況は、大津宿で倒壊家屋六軒を数え、比叡辻の聖衆来迎寺で客殿が破壊、観福寺では本堂・庫裏・門・高塀・地蔵堂が大破した。叡山文庫所蔵の日記の記述を詳細にみていくと、段丘上に立地する上坂本村での被害はほとんどなかったが、湖岸沿いの比叡辻村や下坂本村(浜坂本)では民家・寺院の倒壊が発生していたことがわかる。上坂本村と比叡辻村・下坂本村の被害の差異は地盤条件に大きく影響されていると想定される。また、伊賀上野地震と比べると、震央から近いにも関わらず、全体的に被害は小さかったと言える。これは、基本的には地震の規模の違いによるところが大きい。文政京都地震では震央に近いとされるところに史料が少ないため、従来の研究では震央の決め方に揺らぎが生じており、史料の書かれた場所の地盤の検討も十分にされていなかった。(1)しかし、大邑潤三が、震央を決定する根拠になった亀岡城下の被害や地震断層候補である亀岡断層直上の集落の記録および古建築の調査・検討を行った結果、震央がこれまで推定されていた位置より京都盆地側に七キロメートル程度移動すると推測した。(2)この震央位置にもとづいて、震央距離と地盤状況にもとづいた震度シミュレーションを行った結果、比叡山周辺地域の推定震度は、宇佐美龍夫らの震央位置よりも、大邑のそれの方が説明しやすいことが明らかになった。
1854年伊賀上野地震は、一八五四年七月九日)に現在の三重県伊賀市北部で発生した内陸型地震であるが、この地震における比叡山周辺の被害状況を見てみると、下坂本村において民家の倒壊が多く、とくに尾花川では死亡者も発生している。このほか、市殿神社(妙見社)では石鳥居倒壊、大将軍・別当太子堂(御宮別当所)では石灯籠の倒壊、滋賀院では唐門の石垣が崩れ、地割も発生した。この被害状況を文政京都地震と比較してみると、伊賀上野地震のほうが、震央距離が遠いにもかかわらず、より大きな被害が出ていることから、地震の規模が文政京都地震より大きかったと考えられる。
また、叡山文庫の日記の記述から比叡山周辺地域の余震の状況も明らかにすることができる。本研究では、比叡山周辺地域を事例に、複数の日記の記述の比較と地盤条件を照合によって、一定地域に関する、より精度の高い震度分布を作成し、その分布の原因を検討することで、文理融合による地震研究の可能性を提示した。

(1)宇佐美龍夫他著『日本被害地震総覧 五九九~二〇一二』(東京大学出版会、二〇一三年)。(2)大邑潤三「文政京都地震(一八三〇)による被害と起震断層の再検討」
(『歴史地震』第二九 号、二〇一四年)。
[付記]本研究にあたり、東京大学地震研究所共同利用の助成をうけました。