[MIS28-03] 18世紀後半の陸奥国会津郡金井沢村における天候・作況・死亡危機
★招待講演
キーワード:異常気象、作況、死亡危機、寺院「過去帳」
陸奥国の人口は18世紀初頭を頂点として減少を続け,宝暦期, 天明期, 天保期には死者が多数に上った。死亡危機の実像を復原するには,民衆生活を記した史料の発見に努め,異常気象,作況,農業,貢租,商品流通,食物消費を復原して,死因に迫る必要がある。
陸奥国会津郡高野組金井沢村名主を世襲した室井家は,稲の作況を記録した「作毛位付帳」,毎日の天気や農作業を記録した「農業萬日記」,人口動態を記録した「人数増減差引之覚」などの史料を作成している。高野組の死亡者を供養したA寺とB寺の寺院「過去帳」,「細井日記」,「忠春日記」などを合わせると,金井沢村では,18世紀中期から20世紀初頭までの天気,稲の作況,農作業,死亡数,異常気象を追跡できる。
「天明三年 農業萬日記」によれば,1783年の金井沢村で降雨が記録されている日数は,6月に10日(不記載6月20日,27-30日),7月に4日(不記載7月1-7日,17日),8月に18日,9月に10日である。7月16日・28日・30日,8月8日・30日・31日,9月1日・22日,および10月4日に「サムシ」と記されている。6月中旬の梅雨入りから9月中旬の秋霖明けまで断続的に続いた長雨と浅間山の噴火にともなう7月27日から8月4日の降灰が重複して,異常低温と日照不足に見舞われた。
田村三省の「孫謀録」には,「六月十五日,小雨降東風日々吹て冷 気を催す。…(略)…十六日,十七日,東風吹」と,7月14 日から16日に会津盆地で寒冷な東風が吹いたことが記録されている。東風はオホーツク海から本州北部太平洋側に吹き出す寒冷な北東気流とみられる。「天明三年凶作」には,「六月十日頃,別而不気候。田嶋御祭り之節抔,袷或者わた入の上へかたひら抔着候テ参詣いたし候躰ニ而,以之外さむし」とある。7月14日に祇園祭で賑わう田島村周辺の百姓は,袷や綿入れの上に帷子を重ね着して田出宇賀神社に参詣した。1783年7月14日から16日まで,会津では東風の吹走にともなう異常低温が観察されていた。
「作毛位付帳」には,「天明三卯年 田方靑作ニ而,當時歩刈可仕躰ニ無御座候」という記述とともに,粟・稗・蕎麦・菜大根・麻が下,小豆・芋・煙草が中,大豆が上と判定されている。田島村の猪股忠春が記した「忠春日記」によれば,1783年には稲ばかりか粟,稗,蕎麦も登熟せず,9月27日に初霜が降りた高所では,粟,稗,蕎麦まで不作となった。
1783年11月6日に行われた歩刈の結果は,上田,稲草:ほそば,籾:3合5夕,重量:32匁,下田,稲草:ほそば,籾:2合5夕,重量:20匁と記録されている。1坪から収穫された籾の重量と容積は,「作毛位付帳」に記録されている118年間で最低となった。籾の重量は1833年の150匁,1838年の260匁に遠く及ばず,1764年から1799年に至る36年間の平均重量482匁の1割にも満たない。籾の容積も1833年の6合5夕,1838年の9合5夕,1835年の1升に及ばず,1759 年から1799年に至る期間の平均収量1升7合7夕の2割程度である。
高野組に位置するA寺とB寺の寺院「過去帳」に供養されている死亡者は,1760年から1799年に至る40年間で年間平均32人,死亡性比は120である。年間死亡数が1760年から1799年までの平均死亡数の2倍を超えたのは,1784年の92人,1768年と1780年の64人であり,1776年の50人がこの3 年に次ぐ。
1768年,1776年,1780年の1坪から収穫された籾の収量は平年を上回った。この3年は稲の作況と無関係な死亡危機とみられる。死亡性比は1768年に121,1776年に138,1780年に107であり,40年間の平均死亡性比に近い。年少死亡者の年間死亡数に占める構成比は1768年に39%,1776年に30%,1780年に52%であり,40年間の年少死亡者の構成比19%を大幅に上回っている。年少死亡者の性比は1768年に127,1776年に114,1780年に89であり,40年間の年少死亡性比161を大幅に下回る。
一方,1786年に1坪から収穫した籾の重量は300匁,容積は1升3合であり,18世紀後半で1783年に次ぐ凶作となった。蕎麦,粟,稗の作 況も下と判定されている。しかし,1786年と1787年の死亡数は各27人であり,40年間の平均年間死亡数を下回った。
18世紀中期から20世紀初頭に至る期間で,1坪から収穫される籾の収量が最低を記録した1783年の死亡数は39人,死亡性比は171,翌1784年の死亡数は92人,死亡性比は153となった。A寺とB寺の寺院「過去帳」に供養されている年間死亡数は,1784年に最多となり,18-19 世紀最大の死亡危機を迎えた。
陸奥国会津郡高野組金井沢村名主を世襲した室井家は,稲の作況を記録した「作毛位付帳」,毎日の天気や農作業を記録した「農業萬日記」,人口動態を記録した「人数増減差引之覚」などの史料を作成している。高野組の死亡者を供養したA寺とB寺の寺院「過去帳」,「細井日記」,「忠春日記」などを合わせると,金井沢村では,18世紀中期から20世紀初頭までの天気,稲の作況,農作業,死亡数,異常気象を追跡できる。
「天明三年 農業萬日記」によれば,1783年の金井沢村で降雨が記録されている日数は,6月に10日(不記載6月20日,27-30日),7月に4日(不記載7月1-7日,17日),8月に18日,9月に10日である。7月16日・28日・30日,8月8日・30日・31日,9月1日・22日,および10月4日に「サムシ」と記されている。6月中旬の梅雨入りから9月中旬の秋霖明けまで断続的に続いた長雨と浅間山の噴火にともなう7月27日から8月4日の降灰が重複して,異常低温と日照不足に見舞われた。
田村三省の「孫謀録」には,「六月十五日,小雨降東風日々吹て冷 気を催す。…(略)…十六日,十七日,東風吹」と,7月14 日から16日に会津盆地で寒冷な東風が吹いたことが記録されている。東風はオホーツク海から本州北部太平洋側に吹き出す寒冷な北東気流とみられる。「天明三年凶作」には,「六月十日頃,別而不気候。田嶋御祭り之節抔,袷或者わた入の上へかたひら抔着候テ参詣いたし候躰ニ而,以之外さむし」とある。7月14日に祇園祭で賑わう田島村周辺の百姓は,袷や綿入れの上に帷子を重ね着して田出宇賀神社に参詣した。1783年7月14日から16日まで,会津では東風の吹走にともなう異常低温が観察されていた。
「作毛位付帳」には,「天明三卯年 田方靑作ニ而,當時歩刈可仕躰ニ無御座候」という記述とともに,粟・稗・蕎麦・菜大根・麻が下,小豆・芋・煙草が中,大豆が上と判定されている。田島村の猪股忠春が記した「忠春日記」によれば,1783年には稲ばかりか粟,稗,蕎麦も登熟せず,9月27日に初霜が降りた高所では,粟,稗,蕎麦まで不作となった。
1783年11月6日に行われた歩刈の結果は,上田,稲草:ほそば,籾:3合5夕,重量:32匁,下田,稲草:ほそば,籾:2合5夕,重量:20匁と記録されている。1坪から収穫された籾の重量と容積は,「作毛位付帳」に記録されている118年間で最低となった。籾の重量は1833年の150匁,1838年の260匁に遠く及ばず,1764年から1799年に至る36年間の平均重量482匁の1割にも満たない。籾の容積も1833年の6合5夕,1838年の9合5夕,1835年の1升に及ばず,1759 年から1799年に至る期間の平均収量1升7合7夕の2割程度である。
高野組に位置するA寺とB寺の寺院「過去帳」に供養されている死亡者は,1760年から1799年に至る40年間で年間平均32人,死亡性比は120である。年間死亡数が1760年から1799年までの平均死亡数の2倍を超えたのは,1784年の92人,1768年と1780年の64人であり,1776年の50人がこの3 年に次ぐ。
1768年,1776年,1780年の1坪から収穫された籾の収量は平年を上回った。この3年は稲の作況と無関係な死亡危機とみられる。死亡性比は1768年に121,1776年に138,1780年に107であり,40年間の平均死亡性比に近い。年少死亡者の年間死亡数に占める構成比は1768年に39%,1776年に30%,1780年に52%であり,40年間の年少死亡者の構成比19%を大幅に上回っている。年少死亡者の性比は1768年に127,1776年に114,1780年に89であり,40年間の年少死亡性比161を大幅に下回る。
一方,1786年に1坪から収穫した籾の重量は300匁,容積は1升3合であり,18世紀後半で1783年に次ぐ凶作となった。蕎麦,粟,稗の作 況も下と判定されている。しかし,1786年と1787年の死亡数は各27人であり,40年間の平均年間死亡数を下回った。
18世紀中期から20世紀初頭に至る期間で,1坪から収穫される籾の収量が最低を記録した1783年の死亡数は39人,死亡性比は171,翌1784年の死亡数は92人,死亡性比は153となった。A寺とB寺の寺院「過去帳」に供養されている年間死亡数は,1784年に最多となり,18-19 世紀最大の死亡危機を迎えた。