JpGU-AGU Joint Meeting 2020

講演情報

[J] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-ZZ その他

[M-ZZ56] 地球科学の科学史・科学哲学・科学技術社会論

コンビーナ:矢島 道子(日本大学文理学部)、山田 俊弘(大正大学)、青木 滋之(中央大学文学部)、吉田 茂生(九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門)

[MZZ56-02] 野中到・千代子による1895(明治28)年富士山頂気象観測値の検討

*山本 哲1佐藤 政博1土器屋 由紀子1,2中山 良夫1 (1.芙蓉日記の会、2.富士山環境研究センター)

キーワード:気象学史、富士山頂、野中到、野中千代子、山岳気象観測

1 はじめに
富士山頂での冬季気象観測は野中到(1867~1955)・千代子(1871~1923)夫妻により初めて試みられた。野中到が私費を投じて富士山頂剣ヶ峰に設置した観測所で、中央気象台の嘱託を受け、中央気象台から貸与された測器を用い1895(明治28)年10月1 日に観測が開始され、10月11日に千代子も加わり2名での観測が続けられたが、12月12 日に慰問のため山頂に到達した強力らにより夫妻の危機的健康状況が伝えられ、野中の理解者であった中央気象台予報課長和田雄治(1859~1918)らにより12月22日に救出され観測は終了した(大森 1978)。
得られた気象観測値は中央気象台に報告されたと考えられるが、これまで観測者自身により気温の月統計値などが報告されたもの(野中 1896)などが知られていたのみであった。講演者らは野中家で所蔵されている野中夫妻の遺品の中に、時・日別観測値と考えられるものの存在を確認した。
2 観測値の検討
観測資料は手書きで浄書したもので野中到による筆記と考えられる。気温、気圧、風向・風速、天気の2時間毎、日最高気温・日最低気温(24時日界)の日別観測値が表形式で記載されている。観測表とともに観測所の計画概要・計画図(実際のものと異なる)が保存され、何らかの出版を念頭とした原稿とも見受けられる。気温月平均値等の統計値も記載されているが、値はこれまで公表されたもの(野中 1896)と同一である。
棒状温度計による気温の観測は2時間ごとに10月1日02時から12月22日の12時(日本中央標準時)まで1回の欠測もなく記録されている。日最高気温・日最低気温も毎日観測されており、起時(時間帯)も記録され、最高温度計・最低温度計の読み取り、復度も2時間ごとに行われたと考えられる。表を読み取って観測値を数値化した。気温は現在の富士山(気象庁)の平年値と比べても妥当な変化のように見えるが,気温の2時間毎の観測値が日最高・最低気温の範囲を超える事例が、10 月は皆無であったのが11月下旬から増え、12月は約半分の日で発生していた。気圧の観測値については甲府測候所との比較で、異常値が散見された。
3 考察
存在が確認された観測表が実際の観測値を記載したものであることを疑わせるものはない。
水銀気圧計の測定可能範囲外や測器・電池凍結による風速観測中断・断念などが報告されていたが、最高・最低気温の異常値など、今回初めて確認された点を含め、観測値に関する多くの問題が時別値の公表を遅れさせたことも考えられる。過酷な環境の中で、測器の問題など多くの困難に直面しつつ、文字通り命懸けの観測が行われた。観測表など残された資料を詳細に検討して1895年富士山頂気象観測の実態を明らかにしていく。
なお、観測表のスキャン画像をウェブサイト「野中到・千代子資料館」(nonaka-archives.jimdofree.com、認定NPO法人富士山測候所を活用する会)で公開している。同サイトでは観測資料の他、野中家所蔵の写真・資料等の画像や、年表など「芙蓉日記の会」メンバーによる調査研究の成果も順次公開している。

謝辞 所蔵の貴重な資料の閲覧・複写をご承諾くださった野中家各位に深い謝意を表する。「芙蓉日記の会」※は野中到・千代子をはじめとする富士山気象観測史に関心を持つ大気化学研究者、気象専門家、国文学者、郷土史研究家、編集者など有志の集まりであり、認定NPO法人「富士山測候所を活用する会」の活動支援を受けている。
※『芙蓉日記』は野中千代子の著した山頂滞在記録(1896(明治29)年『報知新聞』掲載)である。「芙蓉峰」は富士山の雅称とされる。

参考文献
大森久雄, 1978:新選覆刻日本の山岳名著 解題, 大修館書店
野中至, 1896:富士山氣象觀測報文, 地学雑誌.

図 1895年10月1日から12月22日までの2時間毎気温観測時別値(実線)と富士山(気象庁)日最高・最低気温平年値(1981-2010年・破線)