JpGU-AGU Joint Meeting 2020

講演情報

[J] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-ZZ その他

[M-ZZ56] 地球科学の科学史・科学哲学・科学技術社会論

コンビーナ:矢島 道子(日本大学文理学部)、山田 俊弘(大正大学)、青木 滋之(中央大学文学部)、吉田 茂生(九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門)

[MZZ56-03] 第2次世界大戦直後の日本の地質学

*矢島 道子1 (1.日本大学文理学部)

キーワード:第2次世界大戦、GHQ、東亜地質図、東亜地質鉱産誌

戦争末期、日本の地質学的な調査はほとんど停止していた。日本地質学会は1943年に50周年を迎えたが、1944年7月以降ほぼ活動を停止した。そして、所有する多くの資料を広島に疎開し、それは8月6日、灰燼に帰した。東京大学理学部地質学教室は山形県大石田に疎開していた。地質調査所は被爆して焼失し疎開していた。

戦後、1945年12月16日東京大学理学部にて在都日米地学者交歓会が行われ、1946年より日本地質学会は活動を開始した。1946年3月には、東京大学理学部で、1947年5月には京都大学理学部で日本地質学会が開催された。GHQ内のスタンフォード大学のスケンク(H.G. Schenk, 1897―1960)が指導した。

日本政府に下された GHQ の地学関係戦後の復興には、エネルギー資源としての石油・石炭の探査は重要であった。石油探鉱、石炭探鉱はアメリカの占領政策と共同でPEAC(石油開発促進委員会)、CEAC(炭田探査審議会)という組織を通して1947年から開始された。1950年には石油探査は新潟油田の地質(I)(II)として、1950、1953年に石炭探査は北海道炭田誌として報告された。

第2次世界大戦中、日本の外地侵出にともなって地質学者は朝鮮半島、中国北部(満州)に多く出ていた。終戦を迎えて、地質学者たちはその資料の多くを焼却処分し、帰国した。1946年2月に地質関係帰還復員対策委員会が開催された(Kobayasi, 1961ほか)。

そのまま残留して、新興中国の産業振興に協力した地質学者もいたが、帰国した地質学者たちは、米国占領軍の要請もあり、外地での地質研究のまとめに精励した。

1952年4月には東亜地質鉱産誌 3巻 1991頁の大著が出版された。200名余が寄せた260篇が収録されていた。朝鮮・満洲・華北・華中華南・台湾の地質鉱産に関係するものであるが、その約5割は満鮮関係であつた。米国地質調査所出張所の協力のもとに、東京地学協会内に東亜地質鉱産誌編集委員会が誕生し、若干の文部省刊行助成金をえて完成した。

1954―60年には東亜地質図が東京地学協会から刊行された。25万分の1、中国北東部と朝鮮、127面、米国側から5名の日系人が著者となり98面を作製した。