JpGU-AGU Joint Meeting 2020

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[O-05] 日本のジオパークから日本列島の成り立ちを知る

コンビーナ:松原 典孝(兵庫県立大学大学院 地域資源マネジメント研究科)、市橋 弥生(佐渡ジオパーク推進協議会)、今井 ひろこ(コムサポートオフィス/和歌山大学国際観光学研究センター)、小原 北士(Mine秋吉台ジオパーク推進協議会)

[O05-P30] 沈堕の滝は後退したのか?-おおいた豊後大野ジオパークにおける河川地形の変化

*吉岡 敏和1 (1.おおいた豊後大野ジオパーク推進協議会)

キーワード:沈堕の滝、後退、阿蘇火砕流、保全、防災、おおいた豊後大野ジオパーク

沈堕の滝は,大野川の本流にかかる雄滝と支流の平井川にかかる雌滝の2つの滝で構成される,おおいた豊後大野ジオパークの中でも中心的なジオサイトの1つである.滝は,付近一帯に広く分布する約9万年前に噴出した阿蘇4火砕流の柱状節理が浸食されてできたもので,雄滝は高さ約20m,幅約100m,雌滝は高さ約18m,幅約10mの規模を有する.現在,雄滝と雌滝の間は約300m離れているが,室町時代の1476年に画家の雪舟がこの地を訪れ描いたとされる鎮田瀑図では,雄滝と雌滝が隣接するように描かれている.このことから一部の人々の間では,室町時代以降に大野川本流の浸食により雄滝が現在の位置まで後退したとも言われている.
雄滝の上部には明治42(1909)年に発電用のダムが建設され,その後,大正12(1923)年にダムがかさ上げされて滝の水量が激減した.現在の滝は,滝の景観を復元したいとする地域住民の声を受け,平成8(1996)年にダムの補強工事を行った際,江戸時代後期の1803年にまとめられた書籍「豊後国志」の「直垂分かれて十三条を為す」の記述に従って,人工的に岩を配して水流を復元した結果よみがえったものである.すなわち1909年には雄滝は現在の位置にあったことは確実で,1476年以降1909年までの400年あまりで滝がどの程度後退したのかが問題である.
沈堕の滝付近の地形を詳細に観察すると,大野川の谷幅はほぼ一定で,滝の直下のみ幅が広く馬蹄形となっている.このことは,滝の位置がある程度この地点で固定し,谷の側方への浸食が進んでいることを示している.したがって,わずか400年程度の間に滝が数百mも後退したということは,にわかには信じがたい.また,もしそのような後退があったとすれば,豊後国志の書かれた1803年から1909年までの約100年間にも数十m以上の滝の後退があったことになり,豊後国志の記述に従って滝を復元することは意味がなくなる.
これに対し,滝の南側の谷壁には大正2(1913)年に造られた魚道のトンネルが掘られていたが,ここ数十年の間にほぼ完全に崩落した.この谷壁は柱状節理の発達した阿蘇4火砕流堆積物の溶結凝灰岩であるが,基部には上部白亜系の大野川層群の砂岩泥岩互層が露出しており,その上面は谷方向に向かって傾斜している.したがって谷壁基部が河川の浸食を受けると,上部の溶結凝灰岩はきわめて容易に崩落する.この崩落は現在も続いており,これが人間の生活圏で起これば重大な災害になりうるものである.
また,サイトの保全の観点からも,この問題は重要である.柱状節理の崩落は時にはサイトを破壊するが,そもそもはこの柱状節理の崩落により豊後大野の大地に谷が削られ,滝ができ,現在の景観が生まれたのであり,その営力は現在も進行中であることを意味しているにすぎない.
この沈堕の滝に限らず,おおいた豊後大野ジオパークの地形の多くは,阿蘇4火砕流に覆われた大地を河川が浸食することによって形成された.その過程は現在も進行しつつある.このことを地域住民に伝えることにより,防災およびサイトの保全への理解をより高めていく必要がある.