JpGU-AGU Joint Meeting 2020

講演情報

[J] 口頭発表

セッション記号 S (固体地球科学) » S-SS 地震学

[S-SS16] 活断層と古地震

コンビーナ:小荒井 衛(茨城大学理学部理学科地球環境科学コース)、近藤 久雄(産業技術総合研究所 活断層・火山研究部門)、大上 隆史(産業技術総合研究所 地質調査総合センター)、佐藤 善輝(産業技術総合研究所 地質情報研究部門 平野地質研究グループ)

[SSS16-14] 安政東海地震の震源域範囲について ―駿河湾奥部の検討

*松浦 律子1中村 操2 (1.公益財団法人地震予知総合研究振興会地震調査研究センター、2.(株)防災情報サービス)

キーワード:安政東海地震、駿河湾北部、富士川河口断層帯、入山瀬断層断層、近世歴史地震地震

石橋(1976)が安政東海地震時の震源域が昭和東南海時に割れ残ったとして所謂想定東海地震の切迫性を警告してから,富士川河口断層帯の入山瀬断層や幾つかの断層が1854年安政東海地震時に活動したとする論文は多数発表された.想定東海地震が警告から半世紀ほど発生しなかったことを受けて,現在では想定東海単独での切迫性は殆ど考慮されず,次の南海トラフ地震に対する備えに社会的な関心は移っている.しかし,富士川河口断層帯にとって,1854年安政東海地震が最新活動であるかはその評価にとって重要である.

筆者らは既に1498年明応東海地震は実は銭洲で発生したPHSプレート内地震であること[中田ほか(2013)],宝永地震の震源域は駿河湾に全く及んでいないこと[松浦・中村(2011)],“蒲原地震山“は安政東海地震後の白鳥山の崩落土砂流下などの影響によって,先祖返りした富士川の扇状地内主流路の東遷によって離水した大きめの中州である[松浦ほか(2018);田中ほか(2018)],とする研究を行っており,史資料から検討できる近世以降に関して残る富士川河口断層帯の最新活動候補は,既に1854年安政東海地震だけになっている.そこで,重点プロジェクトの機会に,幕末故に膨大な同時代伝聞史料に埋もれがちな良質一次史料を注意深く検討することで,駿河湾北半分の,火災や津波などによる被害の影響を排除し,揺れの強さを反映した震度推定を実施して,図1を得た.駿河湾南部に関しては中村(2009)等を利用した.従来の震度分布図では火災の影響を受けて震度7等の判定を受けていた蒲原や岩淵よりも,プレート境界の下盤側に位置して本来は震度が小さくなるはずの三島や愛鷹山南麓で地盤条件の悪いために揺れによる被害が大きかった事が判る.上盤側でも地盤のよい山間部や由比の小池家などは揺れが小さい.下盤の原宿も砂丘上で揺れの被害が軽い.この震度分布は,巨大プレート間地震による被害を受けながら,ロシア船難破にともなって漂着した異人見物に上盤側からも多くの住民が繰り出した当時の被災後の状況などともよく整合している.

同時に,地殻変動に関する史料も吟味した結果,地震時隆起の北限は現静岡市清水区由比であり,蒲原や浮島ヶ原では駿河湾沿いの海退が全く報告されていないことが確認できた.また文献解題が未了であるが,駿河藩士が定期的に地震後に清水湊に問い合わせた葵文庫所蔵の同時代史料によれば,清水湊の1m未満の地震時隆起は僅か4年で旧に復しており,清水の隆起は入山瀬方面まで続く震源域の直上ではなく,震源域の端や近傍の隆起に相応しい事が判明した.従って1854年安政東海地震でも震源域は駿河湾北部には達していないことが確実である.富士川河口断層帯の現行評価のケースaは南海トラフ沿いの巨大地震と同様の発生間隔で富士川河口断層帯の活動が認められるとする説に依拠している.近世以降400年以上この断層が活動していないことは確実であり,ケースaの根拠とされた研究は当時の浮島ヶ沼の気象現象起源の排水不良頻発による水位変化のうち大規模なものを全て地震イベントとした可能性が高く,再検討の必要がある.

図1.1854年安政東海地震の駿河湾周辺の震度および地震時地殻変動判明箇所

本研究は文部科学省の委託による「富士川河口断層帯における重点的な調査観測」により実施された.

参考文献

石橋克彦(1976). 地震学会秋季予稿集, 30-34.
松浦律子・中村操(2011).歴史地震,26,89-90.
松浦律子ほか(2018).歴史地震,33, 1-13.
中村操(2009).歴史地震,24,65-82.
中田高ほか(2013).PGU連合大会予稿,SSS35-03.
田中圭ほか(2018).地学雑誌, 127, 305-323.