[SSS16-P07] 和歌山県串本町橋杭岩に分布する巨礫の1976年以降の移動について
キーワード:南海トラフ、津波漂礫、台風
1.はじめに
本州最南端の潮岬の北西約6キロに位置する和歌山県串本町橋杭岩は、吉野熊野国立公園の景勝地として知られている。海中から突き出した25の奇岩が,南側に浮かぶ紀伊大島に向かって並んでいる様は、あたかも古に架けられた橋の橋脚のように見えることからこのように呼ばれている。その橋杭岩の西側には新第三系熊野層群の頁岩や砂岩が波の侵食と乾湿風化によって形成された波食棚が東西100メートル、南北300メートルにわたって発達している(豊島、1968、Takahashi,1975, 前杢・坪野,1989)。波食棚上には石英斑岩の岩脈である橋杭岩起源の火成岩の巨礫が数1000個散在しており、中には長径が7メールを越える巨大なものも見受けられる。この巨礫群がどのような作用によって現在の位置に運搬されたかについては、これまで発表者らのグループによって検討が進められ、長径数メートルを超える巨礫は宝永地震津波クラス以上の巨大津波によってしか移動しないとの見解が提示された(永井ほか, 2008,Maemokuet.al., 2010,2018,行谷ほか,2011など)。本発表は、津波でしか移動しえない礫の大きさを限定するため、少なくとも本地域に巨大な津波が襲来していな い1976年以降の国土地理院撮影の空中写真、トータルステーションやVRS-GNSSを用いた測量、地上レーダー測量、ドローン空撮によるオルソ画像など複数年次のデータを収集し、各期間で移動している礫をピックアップした。なお、長径1m未満の礫は通常の暴浪などで容易に動く可能性が高いため、基本的に1m以上の礫を調査対象とした。次に、その間に潮岬付近を通過した、最大風速32.7m/s以上、風速15m/sの範囲が半径300km以上の台風をピックアップし、台風の勢力と移動する礫の大きさの上限について考察した。
2.橋杭岩と巨礫
橋杭岩は、熊野層群に第三紀中期中新世に貫入した熊野酸性火成岩類(石英斑岩)の岩脈が、周辺の新第三系堆積岩に比べ侵食抵抗力が大きく,また乾湿や塩類による風化に強いため直線状に差別侵食された25個の石英斑岩の離れ岩群から構成される組織地形である。橋杭岩の西側には波食棚が東西100m内外・南北300mにわたって発達している。橋杭岩が天然の防波堤となり,岩脈よりも西の海域は波の侵食作用が相対的に小さくなり,風化作用の影響が強く出ているためといえる(豊島,1968)。波食棚を構成する泥石は熊野層群の敷屋累層に属し,N64°W方向に延び,南に18°の傾斜をもつ。波食棚はほぼ潮間帯の水準にあり,満潮になると海面下に没する。
3.近年の台風で礫は動いたのか
橋杭岩が撮影された空中写真は,国土地理院撮影所掌のもの(米軍含む)で1947年以降12年次利用可能であることがわかった。しかし,これらのうち,巨礫の分布が確実に把握できる高解像度の空中写真は,1976年1月31日に高度1600mから撮影されたカラー空中写真のみであり,次に解像度が高いものは2007年5月9日に高度3000mから撮影されたカラー空中写真で,陸上解像度40cmとされ,長径2m以上の礫がなんとか区別できる程度である。さらに、2007年5月以降(2010年,2018年一部再測量)に行った長径1m以上の巨礫の位置と大きさについてトータルステーションおよびVRS-GNSSを用いた測量成果,2012年7月・2012年10月に行ったLiDARを用いた地上レーザー測量成果,2019年2月に行ったドローン空撮により作成したオルソ画像を用い,それぞれの期間に移動した礫を,画像解析によりピックアップした。
4.結果
今回は1976年1月?2007年5月、2007年5月?2012年7月,2012年7月?2012年10月,2012年10月?2019年2月の4期間について,その間に移動した礫をピックアップし,それらの特徴をまとめた。なお、下の表は2007年7月から2018年9月までに潮岬付近を通過した、対象となる台風の一覧である。その結果、移動した礫の総数は少なくとも19個で,移動した最大の礫は長径1.85m(重量換算で2.6トン)であった。その他の礫はほとんどが長径1m以下(重量換算で0.5トン以下)の比較的小規模で軽い礫のみであった。これらのことから,橋杭岩波食棚上に分布する長径2m以上の巨大礫は,ほぼ台風や高潮では移動せず,巨大な津波による津波漂礫である可能性が高くなった。
本州最南端の潮岬の北西約6キロに位置する和歌山県串本町橋杭岩は、吉野熊野国立公園の景勝地として知られている。海中から突き出した25の奇岩が,南側に浮かぶ紀伊大島に向かって並んでいる様は、あたかも古に架けられた橋の橋脚のように見えることからこのように呼ばれている。その橋杭岩の西側には新第三系熊野層群の頁岩や砂岩が波の侵食と乾湿風化によって形成された波食棚が東西100メートル、南北300メートルにわたって発達している(豊島、1968、Takahashi,1975, 前杢・坪野,1989)。波食棚上には石英斑岩の岩脈である橋杭岩起源の火成岩の巨礫が数1000個散在しており、中には長径が7メールを越える巨大なものも見受けられる。この巨礫群がどのような作用によって現在の位置に運搬されたかについては、これまで発表者らのグループによって検討が進められ、長径数メートルを超える巨礫は宝永地震津波クラス以上の巨大津波によってしか移動しないとの見解が提示された(永井ほか, 2008,Maemokuet.al., 2010,2018,行谷ほか,2011など)。本発表は、津波でしか移動しえない礫の大きさを限定するため、少なくとも本地域に巨大な津波が襲来していな い1976年以降の国土地理院撮影の空中写真、トータルステーションやVRS-GNSSを用いた測量、地上レーダー測量、ドローン空撮によるオルソ画像など複数年次のデータを収集し、各期間で移動している礫をピックアップした。なお、長径1m未満の礫は通常の暴浪などで容易に動く可能性が高いため、基本的に1m以上の礫を調査対象とした。次に、その間に潮岬付近を通過した、最大風速32.7m/s以上、風速15m/sの範囲が半径300km以上の台風をピックアップし、台風の勢力と移動する礫の大きさの上限について考察した。
2.橋杭岩と巨礫
橋杭岩は、熊野層群に第三紀中期中新世に貫入した熊野酸性火成岩類(石英斑岩)の岩脈が、周辺の新第三系堆積岩に比べ侵食抵抗力が大きく,また乾湿や塩類による風化に強いため直線状に差別侵食された25個の石英斑岩の離れ岩群から構成される組織地形である。橋杭岩の西側には波食棚が東西100m内外・南北300mにわたって発達している。橋杭岩が天然の防波堤となり,岩脈よりも西の海域は波の侵食作用が相対的に小さくなり,風化作用の影響が強く出ているためといえる(豊島,1968)。波食棚を構成する泥石は熊野層群の敷屋累層に属し,N64°W方向に延び,南に18°の傾斜をもつ。波食棚はほぼ潮間帯の水準にあり,満潮になると海面下に没する。
3.近年の台風で礫は動いたのか
橋杭岩が撮影された空中写真は,国土地理院撮影所掌のもの(米軍含む)で1947年以降12年次利用可能であることがわかった。しかし,これらのうち,巨礫の分布が確実に把握できる高解像度の空中写真は,1976年1月31日に高度1600mから撮影されたカラー空中写真のみであり,次に解像度が高いものは2007年5月9日に高度3000mから撮影されたカラー空中写真で,陸上解像度40cmとされ,長径2m以上の礫がなんとか区別できる程度である。さらに、2007年5月以降(2010年,2018年一部再測量)に行った長径1m以上の巨礫の位置と大きさについてトータルステーションおよびVRS-GNSSを用いた測量成果,2012年7月・2012年10月に行ったLiDARを用いた地上レーザー測量成果,2019年2月に行ったドローン空撮により作成したオルソ画像を用い,それぞれの期間に移動した礫を,画像解析によりピックアップした。
4.結果
今回は1976年1月?2007年5月、2007年5月?2012年7月,2012年7月?2012年10月,2012年10月?2019年2月の4期間について,その間に移動した礫をピックアップし,それらの特徴をまとめた。なお、下の表は2007年7月から2018年9月までに潮岬付近を通過した、対象となる台風の一覧である。その結果、移動した礫の総数は少なくとも19個で,移動した最大の礫は長径1.85m(重量換算で2.6トン)であった。その他の礫はほとんどが長径1m以下(重量換算で0.5トン以下)の比較的小規模で軽い礫のみであった。これらのことから,橋杭岩波食棚上に分布する長径2m以上の巨大礫は,ほぼ台風や高潮では移動せず,巨大な津波による津波漂礫である可能性が高くなった。