JpGU-AGU Joint Meeting 2020

講演情報

[J] 口頭発表

セッション記号 S (固体地球科学) » S-SS 地震学

[S-SS17] 地震全般

コンビーナ:大林 政行(独立行政法人海洋研究開発機構 火山・地球内部研究センター)、中東 和夫(東京海洋大学)、落 唯史(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター 活断層・火山研究部門)

[SSS17-05] 南海トラフ地震の評価に時間予測モデルを適用することに妥当性はあるか?

*橋本 学1 (1.京都大学防災研究所)

キーワード:南海トラフ地震、長期評価、時間予測モデル、科学的公正性

地震調査委員会は,南海トラフにおいて今後30年間にM8〜9クラスの地震発生確率が70〜80%(2019年時点)と評価している.最近,地震発生確率が「水増し」された,との報道があった.筆者は,2011年からの南海トラフ地震の長期評価に分科会委員として関わった.その中で,さまざまな点,特に時間予測モデルを用いた確率評価について問題点を指摘した.この評価に関する問題点をまとめておく必要性を感じたので報告する.

 南海トラフの長期評価は第1版が2001年に公表された[地震調査委員会,2001].M8クラスの東南海・南海地震,連動すれば最大M8.7の地震が,今後30年間に60〜70%の確率で発生すると評価された.確率の計算には,Shimazaki and Nakata(1980)による時間予測モデルが採用された.東日本大震災を受けて,この評価が見直され,2013年に第2版が公表された.最大地震規模はM9.1になり,個別の地震に対する評価はなく,多様性が強調された.しかし,地震発生確率の評価においては,2001年と同じく時間予測モデルを採用した.ただし,第2版において,時間予測モデルによる確率評価に使用されたデータは,室津港のデータのみである.すなわち,宝永1.8 m,安政1.2 m,昭和1.15 mの隆起量である.そして,これらの数値を時間予測モデルに当てはめて,昭和の地震から次の地震までの発生間隔(88.2年)を推定している.この値を用いて計算をすると,標記の確率が算出される.
 計算の元になった室津港のデータは,宝永・安政については今村(1930),昭和については沢村(1953)が原典である.今村(1930)は,地元に残る古文書の記載から,安政の地震では約4尺海面が低下したことと,宝永地震から52年後の宝暦9年(1759年)までの間に約5尺の変動があったことを発見した.Shimazaki and Nakata (1980)は,室津周辺の水準測量から推定されている沈降率(5〜7 mm/年)を用いて補正し,宝永地震直後の変動としている.一方,沢村(1953)のデータは,旧汀線の高度の実測である.
 ところが,再来間隔の計算では測定誤差を一切考慮していない.宝永と安政の地震については,(1)計測方法や地点に関する情報がないため,計測誤差の評価ができない,(2)計測日時の記載がないため,月齢による潮位変動を見積もることができない,(3)波浪等気象・海象に関する記載もない,等の問題点がある.また,宝永の地震については,地震発生から計測時までの約50年間の変動の補正において,余効変動を考慮していない.一方,沢村(1953)の昭和の地震のデータも,水準測量と同程度の精度があるとは考えられないので,大きな誤差が伴うと考えるのが妥当である.試みに昭和の隆起量に10cm,安政と宝永に30 cmのランダムな誤差を加えて計算すると,次の地震発生は2020年代から2050年代まで大きくばらつく.このばらつきを考慮すると,確率はもっと低くなるであろう.
 時間予測モデルによる再来間隔の推定には,平均隆起速度が重要で,室津港のデータに対しては13 mm/年となる.Shimazaki and Nakata (1980)では,これが応力蓄積速度に対応するものと考えられている.一方,弾性反発説に従えば,地震間の応力蓄積速度は室戸岬周辺の水準測量や験潮による沈降速度に比例する.しかし,これは前述のように5〜7 mm/年であり,平均隆起速度と大きな差がある.室戸岬周辺の地震時隆起には,弾性反発による隆起と残留隆起(=塑性変形)が含まれる.弾性変形は5〜7 mm/年の沈降速度に等しいと考えられるので,これを除いた量が塑性変形となる.余効変動を無視すると,宝永地震では最大約0.7 m,安政地震は約0.6 mの残留隆起があることになる.前杢(2001)の室戸岬周辺のヤッコカンザシの化石群体データからは,1,000年以内に1m以上の隆起は確認できない.また,塑性の力学に従うと,降伏応力を超えると変形と応力の比例関係は崩れるので,単純に残留隆起と地震の規模等との比を取ることは適切でない.

 第2版の議論では,Scholz(1990)の時間予測モデルに否定的な研究なども取り上げられた.さらに,南海トラフ全体をひとまとめにして扱うことにしたので,第1版と同じ考え方で時間予測モデルを適用するのはおかしい,という指摘もあった.
 これらの批判的な議論が大勢を占め,分科会は時間予測モデルの採用に反対した.そして,他の海溝型地震や活断層の評価と同様に,再来間隔の平均値を用いた確率評価を使うべきであると結論した.この場合,確率は大きく低下する.このため,その後の地震調査委員会と政策委員会関係者の会議において,時間予測モデルの結果を採用する方針が決まった.筆者は,科学者と防災政策関係者との会議で,このような判断をしたことを批判するものではない.南海トラフの地震サイクルについての科学的知見が十分でなく,実際に90年で再来した事実がある以上,防災政策面からの議論が優先しても致し方ない,と考える.しかし,報告書にはこの経緯が記載されていない.筆者はこの経緯の記載を強く主張したが,受け入れられなかった.結果的に,あたかも科学的な判断のみで結論されたと見做される状況を招いてしまった.このことこそ,批判されるべきである.