11:00 〜 13:00
[HDS09-P05] 災害碑からみた群馬県南部利根川中流域における近世以降の歴史災害とその地域社会への影響
キーワード:災害碑、水害、土砂災害、雹霜害、群馬県南部
新しい地図記号「自然災害伝承碑」は,自治体が国土地理院に対して地図記号としての登録・掲載を申請しなければ,地理院地図には掲載されない。そのようなこともあり,何らかのかたちで過去の災害と関連して建立された石造物などが存在しても,地理院地図には自然災害伝承碑として掲載されていない事例は多く存在する。本発表では,群馬県南部利根川中流域を対象として行った災害碑の分布や碑文の記述内容などに関する調査結果を示す。また,諸資料を用いてそれらの災害が地域社会に与えた影響を検討し,近年の他の研究成果を引用しつつ,地域住民における災害碑の認知状況についても紹介する。調査対象地域は,群馬県南部(一部埼玉県を含む)の利根川本川中流域と,その支流の神流川,碓氷川,烏川などの流域である。
(1)災害碑の分布,碑文記述内容(建立経緯)と災害種:地理院地図に掲載されている群馬県内の自然災害伝承碑は最近増えつつあり,2022年1月14日時点で26基存在する。そのうち,本調査地域に存在するものは9基である。しかし,本調査により,それらを含め本調査地域には100基以上の災害碑が存在していることが明らかとなった。災害種別としては水害・土砂災害に関するものが多く,1742(寛保2)年,1786(天明6)年,1823(文政6),1824(文政7)年,1846(弘化3)年,1907(明治40)年,1910(明治43)年,1935(昭和10)年,1947,1948,1949(昭和22,23,24)年などに発生した水害・土砂災害に関する碑がみられる。それらの碑は慰霊・供養に関する記述に加え,地域の被害状況や復旧過程までもが記述されているものが多くみられる。とくに,1947年カスリーン台風災害碑には,耕地や堤防などの復旧過程を碑文に刻んだ「復旧記念」碑が多い。近年,烏川下流域の1910年水害で甚大な被害を受けた一地区で実施された地域住民を対象とした調査では,1910年水害を認知している住民は約3割,(地理院地図に伝承碑として掲載されていない)水害碑の存在を認知している住民は約3分の1程度との結果が公表されている(宮 2020)。水害・土砂災害関連碑の他にも,1783(天明3)年浅間天明噴火(降灰)・泥流,1887(明治20)年雹害,1893(明治26)年霜害などに関する碑が多く存在しているほか,県南西部の安中市には1931(昭和6)年西埼玉地震に関連した碑が存在する。
(2)雹霜害と地域社会への影響
本調査地域は養蚕が盛んな地域であったため,雹霜害により蚕の飼料となる桑の葉が枯損すると蚕の飼育が困難となり,蚕糸業に甚大な影響が生じた。江戸期以降の蚕糸業の隆盛とともに養蚕信仰が広く流布し,多くの「蚕神碑」が建立された。その中には,地域における雹霜害の被害状況を克明に碑文に刻んだ碑が存在する。とくに,1887(明治20)年雹害碑が榛名山南東麓に,1893(明治26)年霜害碑が安中,伊勢崎地域に集中的に分布する。それらの碑文内容は類似しており,雹霜害で桑の葉が枯損して飼養できなくなった蚕の遺骸を埋葬し,供養した旨が刻まれている。それらの碑は蚕糸業が盛んだった幕末期から昭和初期にかけて建立された。明治政府により公布された罹災窮民を救済する制度である「備荒儲蓄法」による災害種別支出額に関する資料をみると,それらの雹霜害碑が分布する地域では「雹害救助」や「霜害救助」に多額の儲蓄金が支給されていたことがわかり,地域社会における養蚕業,蚕糸業の重要性と,雹霜害により地域社会が被ったダメージの大きさを表している。
(1)災害碑の分布,碑文記述内容(建立経緯)と災害種:地理院地図に掲載されている群馬県内の自然災害伝承碑は最近増えつつあり,2022年1月14日時点で26基存在する。そのうち,本調査地域に存在するものは9基である。しかし,本調査により,それらを含め本調査地域には100基以上の災害碑が存在していることが明らかとなった。災害種別としては水害・土砂災害に関するものが多く,1742(寛保2)年,1786(天明6)年,1823(文政6),1824(文政7)年,1846(弘化3)年,1907(明治40)年,1910(明治43)年,1935(昭和10)年,1947,1948,1949(昭和22,23,24)年などに発生した水害・土砂災害に関する碑がみられる。それらの碑は慰霊・供養に関する記述に加え,地域の被害状況や復旧過程までもが記述されているものが多くみられる。とくに,1947年カスリーン台風災害碑には,耕地や堤防などの復旧過程を碑文に刻んだ「復旧記念」碑が多い。近年,烏川下流域の1910年水害で甚大な被害を受けた一地区で実施された地域住民を対象とした調査では,1910年水害を認知している住民は約3割,(地理院地図に伝承碑として掲載されていない)水害碑の存在を認知している住民は約3分の1程度との結果が公表されている(宮 2020)。水害・土砂災害関連碑の他にも,1783(天明3)年浅間天明噴火(降灰)・泥流,1887(明治20)年雹害,1893(明治26)年霜害などに関する碑が多く存在しているほか,県南西部の安中市には1931(昭和6)年西埼玉地震に関連した碑が存在する。
(2)雹霜害と地域社会への影響
本調査地域は養蚕が盛んな地域であったため,雹霜害により蚕の飼料となる桑の葉が枯損すると蚕の飼育が困難となり,蚕糸業に甚大な影響が生じた。江戸期以降の蚕糸業の隆盛とともに養蚕信仰が広く流布し,多くの「蚕神碑」が建立された。その中には,地域における雹霜害の被害状況を克明に碑文に刻んだ碑が存在する。とくに,1887(明治20)年雹害碑が榛名山南東麓に,1893(明治26)年霜害碑が安中,伊勢崎地域に集中的に分布する。それらの碑文内容は類似しており,雹霜害で桑の葉が枯損して飼養できなくなった蚕の遺骸を埋葬し,供養した旨が刻まれている。それらの碑は蚕糸業が盛んだった幕末期から昭和初期にかけて建立された。明治政府により公布された罹災窮民を救済する制度である「備荒儲蓄法」による災害種別支出額に関する資料をみると,それらの雹霜害碑が分布する地域では「雹害救助」や「霜害救助」に多額の儲蓄金が支給されていたことがわかり,地域社会における養蚕業,蚕糸業の重要性と,雹霜害により地域社会が被ったダメージの大きさを表している。