日本地球惑星科学連合2023年大会

講演情報

[J] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-IS ジョイント

[M-IS22] 歴史学×地球惑星科学

2023年5月21日(日) 10:45 〜 12:00 202 (幕張メッセ国際会議場)

コンビーナ:加納 靖之(東京大学地震研究所)、芳村 圭(東京大学生産技術研究所)、岩橋 清美(國學院大學)、玉澤 春史(京都市立芸術大学)、座長:芳村 圭(東京大学生産技術研究所)、岩橋 清美(國學院大學)

11:15 〜 11:30

[MIS22-07] 江戸の洪水・貧困の関係性とその克服の過程についての定量分析

★招待講演

*中村 理紗1、川崎 昭如1 (1.東京大学)

近年,途上国での貧困削減を目指す上で,災害が一つの大きな障壁となっていることが明らかになってきた.今後気候変動や都市化により,洪水リスクが増大していくと考えられている.洪水と貧困の関係性に関する研究は,近年の途上国を対象に盛んに行われるようになってきたが,治水による社会経済的な効果については長期的な分析が必要となるため実証されていない.
一方,アジアモンスーン気候および4つのプレート上に位置する日本は風水害や地震、津波などの自然災害への暴露は大きいものの,防災投資によって災害リスクをある程度抑えることができている.日本の首都である東京は、江戸時代(1603-1868)の急速な都市化により世界一の都市(江戸)に発展したが、洪水が頻発していたことが記録に記されている.果たして,当時の江戸にも現在の途上国と同様に洪水と貧困の関係性はあったのだろうか.そして,当時およびその後の治水事業は貧困問題の解決にどのような影響を与えてきたのだろうか.本研究では,これらのリサーチ・クエスチョンに答えるべく、江戸の洪水と貧困の関係性を定量化するとともに,明治時代以降(1868-)の治水事業による貧困克服の過程を明らかにすることを目指した.
 はじめに,江戸の洪水と貧困の関係性を定量化するために,当時の洪水や貧困を表す文献やデータを整理した.当時の洪水や貧困に関する体系的な史料はないため,その代用となる指標を様々な文献から収集しデジタル化した.そしてこれらのデータを用いて,江戸の全21地域別に算出した貧困者密度と集計した洪水回数について相関を分析した.次に,より空間的に精緻な分析を行うために,貧困層が密集する三大貧民窟や非人小屋が存在した町の洪水リスクを検証した.それぞれの町をGIS上でポリゴン化し、地形図と重ね合わせることで、地形条件を可視化し,これを文献調査により歴史的背景と照合させた.また,洪水被害が記録されている深川・四谷・芝の三地域について,それぞれ町単位で店借率(≒その日暮らしの者の割合)を算出し,標高との相関の有無を分析した.最後に,明治時代以降の治水事業と社会変化を整理することで,治水事業が貧困問題にどのような影響を与えたのかを明らかにした.
その結果,江戸全域の貧困者密度と洪水回数には正の相関があり(相関係数0.69),洪水が頻発する地域に貧困層が多く居住する傾向が示された.次に,貧困層が多数居住していた三大貧民窟や非人小屋25箇所は,全て河川・海岸沿いや谷底などの浸水しやすい地形に存在していたことが明らかになった.また,標高と店借率の相関分析から,地域内の標高・洪水リスクの差が大きい地域においては,貧困層が標高の低い場所に居住する傾向が強いことが初めて定量的に示された.最後に,1911年に建設が始まった荒川放水路によって本所・深川地域の安全性・利便性が大きく向上したこと,そのことが工業の発展を支え,貧困層の生活水準をも向上させたことが定量的に示された.
江戸時代は技術や予算の制約が大きかったため,江戸の中心部のみを洪水から守り,周辺部ではむしろ貧困層に悪影響を与えていた.しかし明治時代以降,当時の国家予算の5.5%に相当する荒川放水路事業を実施したことで,洪水と貧困が深刻であった本所・深川地域で安全性や利便性が向上し,貧困層の生計向上が促進された.つまり,当時の明治政府が放水路事業による長期的な便益に着目し,治水に注力したからこそ,貧困層の生計向上,地域のさらなる社会的経済的発展につながったのだと考えられる.
本研究の新規性は,様々な分野の史料から洪水・貧困の指標を抽出し統合したことで,江戸の洪水と貧困の関係性を、江戸全域と町単位の2つのスケールで定量化したこと,貧困問題の解決への治水事業の長期的な効果を実証したことだ.本研究で定量化した関係性は,これまでで世界最古のものである.本研究によって,過去の日本でも洪水リスクの高い場所に貧困層が密集していたこと,そして,江戸時代の中心部のみを守る治水事業は格差を拡大したが,長期的な視野で明治政府が治水事業に大きな投資をしたことで貧困層の生計が向上したことが明らかになった.