日本地球惑星科学連合2023年大会

講演情報

[J] オンラインポスター発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-IS ジョイント

[M-IS22] 歴史学×地球惑星科学

2023年5月22日(月) 09:00 〜 10:30 オンラインポスターZoom会場 (2) (オンラインポスター)

コンビーナ:加納 靖之(東京大学地震研究所)、芳村 圭(東京大学生産技術研究所)、岩橋 清美(國學院大學)、玉澤 春史(京都市立芸術大学)

現地ポスター発表開催日時 (2023/5/21 17:15-18:45)

09:00 〜 10:30

[MIS22-P03] 災害碑と伝統的水防建築からみた群馬県南東部における江戸中期以降の水害と土地履歴

*青山 雅史1 (1.群馬大学教育学部)

キーワード:水害、災害碑、伝統的水防建築、土地履歴、群馬県南東部

利根川と渡良瀬川に挟まれた群馬県南東部は,古くから洪水被害が多発する「水害常襲地域」として知られている。そのため,江戸中期以降の洪水による被害状況や被災教訓,「押堀」の消失過程などを刻んだ災害碑や,「水塚(みつか,みづか)」などと呼ばれる盛土や盛土上に建てられた小屋などの水防建築が多数残存している。また,この地域の河道変遷,遊水地の造成や「押堀」の消失過程などは,1/2万迅速測図や旧版地形図などからもある程度知ることができる。それに加え,1947年カスリーン台風襲来時に発生した水害の様子は,米軍撮影空中写真の判読から情報を得ることができる。本発表では,本地域(館林市と千代田町,明和町,板倉町の邑楽郡東部)における災害碑や水防建築の分布状況や災害碑の碑文内容,多時期の地理空間情報などを示し,本地域における江戸中期以降の洪水被害や土地履歴に関する検討結果を提示する。
(1)災害碑:本地域はこれまで多くの水害が発生したことが知られているが,本地域に分布する災害碑は,寛保2(1742)年,天明6(1786)年,文政6(1823)年,文政7(1824)年,明治43(1910)年,昭和22(1947)年などに発生した洪水被害に関連した碑である。それらは,犠牲者の慰霊・供養,被災教訓の伝承,被災者救済のために尽力した人物の顕彰,復旧・復興記念などのために建立されたものであることが,碑文や碑名から読み取れる。館林市や千代田町は明治43年水害で甚大な被害が発生し,それにまつわる碑が複数建立されている。明和町においては,江戸後期の文政6,7年に発生した水害にまつわる災害碑が複数存在し,その水害時に生じた2つの池沼(押堀)が大正期と昭和初期に埋め立てられ,農地が造成されたことを刻んだ碑なども存在する。押堀の存在とその消失過程は,明治17(1884)年測量の迅速測図や明治期以降の旧版地形図などから読み取ることができる。文政6,7年水害関連の碑が建立された地点の近傍には,後述の水防建築「水塚」が存在している地区もみられた。また,それらの迅速測図や旧版地形図から,明治43年水害後の利根川改修工事による河道拡幅とそれに伴う現在の堤内地における建物消失なども読み取れる。板倉町には昭和22年カスリーン台風水害に関連する碑が存在する。渡良瀬川(渡良瀬遊水地)堤防の決壊とそれによる板倉町の浸水状況は,米軍撮影空中写真から判読可能である。
(2)水防建築:本地域には利根川,渡良瀬川,谷田川沿いの地区(低地)に多数の水防建築「水塚」が残存していたことが多くの調査研究により知られているが,その数は近年急速に減少しつつある。板倉町や館林市東部の水塚に関しては詳細な調査研究がこれまでもなされてきたが,そのほかに明和町においても存在している。これらの水塚における盛土の周囲地盤からの比高は地域でやや異なるが,3m近い比高を持つものもみられる。また,この地域の神社には,周囲よりも1m以上高い明瞭な比高を有する盛土(塚)上に本殿や拝殿が建造されている神社も多く存在している。