日本地球惑星科学連合2023年大会

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[J] オンラインポスター発表

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[M-ZZ39] 地球科学の科学史・科学哲学・科学技術社会論

2023年5月22日(月) 10:45 〜 12:15 オンラインポスターZoom会場 (9) (オンラインポスター)

コンビーナ:矢島 道子(東京都立大学)、青木 滋之(中央大学文学部)、山田 俊弘(大正大学)、山本 哲

現地ポスター発表開催日時 (2023/5/21 17:15-18:45)

10:45 〜 12:15

[MZZ39-P03] 写真:メンデンホールと東京大学物理学科教員・学生たち

*山本 哲1 (1.芙蓉日記の会)


キーワード:メンデンホール、東京大学物理学科、富士山気象観測

明治11年(1878)10月、東京大学物理学科の教授として米国のメンデンホール(Thomas C Mendenhall; 1841-1924)が来日した。彼の自伝の中から日本滞在3年間の部分を抜粋して彼の孫が1989年に刊行した“An American scientist in early Meiji Japan : the autobiographical notes of Thomas C. Mendenhall “の巻頭に掲載された写真” Thomas C Mendenhall with students and faculty of the department of physics at Tokyo University”は日本でそれまで知られていなかったものであった。写った個々の人物名は教授の山川健次郎(1854-1931)と学生の田中館愛橘(1856-1952)のみ示されていたが、今回同定を試みその全員を推定した。山川と田中館のほか、学生の桐山篤三郎(1856-1928)、隈本有尚(1860-1934)、田中正平(1862-1945)、玉名程三(1861-1937)、寺尾寿(1855-1923)、中村精男(1855-1930)、信谷信爾(1857-1893)、藤沢利喜太郎(1861-1933)和田雄治(1859-1918)の11名である。いずれもその後の日本での物理学、中でも多くが地球惑星物理学の分野で主導的な役割を果たした人物である。メンデンホールが日本の地球惑星物理学に大きな影響を与えたことを暗示している。当時教授でMendenhallの通訳を務めた菊池大麓(1855-1917)は写っていないとみられる。撮影時期はMendenhallの離日(1881年)の直前と伝えられていたが、1879年5 月から1883年3月までフランス留学していた寺尾が写っていることから、より早い、彼の来日間もない1878年頃の撮影であることが推定された。16~24歳前後であった彼らの若き日の姿は、当時の彼らの生活や相互関係・人脈形成など、多くの想像を駆り立てるかもしれない。たとえばMendenhall が主導して行った1880年8月の富士山での重力・気象観測に参加した学生・卒業生7名(隈本・田中・田中館・中村・信谷・藤沢、和田は山麓で観測)が全員写っている。福岡県出身の寺尾は1894年同郷の野中至(到、1867-1955)を中央気象台予報課長となっていた和田に紹介し、このことが1895年の野中の富士山頂冬季観測計画実施の大きな契機となった。
謝辞 人物の同定には和田雄治のご子孫と富士山気象観測史に関心を持つ有志の集まり「芙蓉日記の会」会員諸氏の協力を得た。本研究はJSPS科研費20H00676の助成を受けた。

写真 トーマス・メンデンホールと東京大学物理学科教員・学生たち(Wikimedia Commons: File:ThomasCMendenhallwithStudentsJapan1880.jpg)。メンデンホールのすぐ後ろが山川健次郎、右から二番目が田中館愛橘と示されていた。推定は以下のとおり:前列左から桐山篤三郎、寺尾寿(、メンデンホール)、中村精男、和田雄治、後列左から信谷信爾、田中正平、隈本有尚(、山川)、玉名程三(、田中館)、藤沢利喜太郎。