日本地球惑星科学連合2023年大会

講演情報

[J] 口頭発表

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[M-ZZ42] 地質と文化

2023年5月24日(水) 13:45 〜 15:00 201B (幕張メッセ国際会議場)

コンビーナ:先山 徹(NPO法人地球年代学ネットワーク 地球史研究所)、鈴木 寿志(大谷大学)、川村 教一(兵庫県立大学大学院 地域資源マネジメント研究科)、座長:鈴木 寿志(大谷大学)、川村 教一(兵庫県立大学大学院 地域資源マネジメント研究科)、先山 徹(NPO法人地球年代学ネットワーク 地球史研究所)

14:15 〜 14:30

[MZZ42-03] 与那国島に伝わる大津波伝説に関する考察

*大橋 聖和1 (1.山口大学大学院創成科学研究科)

キーワード:津波伝説、沖縄トラフ、琉球海溝

日本の最西端に位置する与那国島には、三つの島建の伝説が伝えられているが、その一つに「ながま・すに」と呼ばれる大津波伝説がある(池間, 2013)。本発表では、この伝説が事実かあるいは創話か、人文学的・科学的方面から考察し、その意味を深掘りする。伝説のあらすじはこうである。大昔、与那国島を大津波が襲った。津波は島の真ん中まで達し、1人の母親と2人の子供が波から逃げようともがいていた。ところが無情にも波は3人を飲み込み、母親は助かるためにはどちらかの子供を棄てなければならない状況に追い込まれた。母親は兄の子供を助ける道を選び、実の子供の手を離した。ほどなく波は引き始め、2人だけが助かった。
2人が津波に飲まれた場所は「ながま・すに(仲間曽根)」と呼ばれ、与那国島の中央部に位置する旧島仲集落の南東にある。標高はおよそ40~50mの場所であるため、伝説に残る大津波の遡上高も最大50mほどであったと推測される。波は東西から押し寄せてながま・すにでかち合ったとされるが、仮に津波が北からきたとすると、島仲集落の北方にある標高70~80mの高台ティンダバナが障壁となるため東の田原川と西の桃田原川から遡上してくることになり、伝説の状況と地形の特徴は一致する。
この島建の伝説は、1500年頃のサンアイ・イソバの伝説よりも前の出来事として伝承されており、明らかに先史与那国を描いている。また、八重山諸島で発生した大津波の例としては1771年の明和大津波があるが、この時与那国島でも津波は観測されたものの被害は港周辺に限定され、人的被害は生じなかった。したがって、1771年の明和大津波を直接的に指すわけではない。
この伝説とは別に、与那国島に伝わる方言(ドゥナンムヌイ)の中には津波を意味する「しきゃナン」という言葉がある(池間, 2003)。ナンは波を意味する言葉として八重山諸島で一般的に用いられているものであるが、「しきゃナン」は本州において津波を示す古語である「四海波(しかいなみ,しがりなみ)」(都司, URL1)が音として伝わったものと考えられる。また、「ながま・すに」と類似する津波伝説は、多良間島の島建伝説として宮古島にも言い伝えられており(乾隆日記; 慶世村, 2008; 後藤・島袋, 2020)、その中でも津波は「四海波」と表現されている。1500年頃の八重山・与那国征伐以降、与那国島と宮古島は密接な交流があり、その中で宮古島に伝わる伝説や方言が与那国島に伝来したと考えることは可能である。ただし、多良間島の津波伝説には津波の押し寄せた方向についての記述は見当たらない。したがって、伝説が伝わるにあたって、与那国島にそれ以前から存在した津波伝承と混交し、脚色された可能性がある。

池間栄三 (2013), 与那国の歴史 第10版. p207, 私家版.
池間 苗 (2003), 与那国語辞典. p376, 私家版.
慶世村恒仁 (2008), 新版 宮古史伝. p383, 冨山房インターナショナル.
後藤和久・島袋綾野 (2020), 最新科学が明かす明和大津波. p200, 南山舎.
[URL1]都司嘉宣, 津波の比較史料学. https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/030708/tsushin/no2/tsuji.html