11:30 〜 12:00
[HCG20-04] 原子力政策に関する対話の場を考える:科学と政治と社会の協働は可能か?
★招待講演
キーワード:原子力政策、対話の場、トランス・サイエンス的課題、厄介な問題、1F廃炉、地層処分
原子力政策をめぐる問題は、本質的にトランス・サイエンス的課題であり、厄介な問題である アメリカの高名な核物理学者ワインバーグは、1972年、「サイエンスとトランス・サイエンス」と題する論文で、低線量被曝の健康被害などを事例とし、こうした社会課題は「科学に問うことができるが、科学によって答えることはできない」トランス・サイエンス的課題sわるとした(Weinberg, 1972)。
トランス・サイエンス的課題は、カリフォルニア大学の数学者リッテルと都市計画学者ウィーバーが1973年に提起した厄介な問題とほぼ同じ趣旨のものである(Rittel & Webber, 1973)。
トランス・サイエンス的課題は科学的予測の認識論的不確実性に焦点を当てたのに対し、厄介な問題は都市計画などを対象に、人々の価値観の多様化によって従来の専門知に基づく最適解では社会的受容性や社会的納得性を醸成できないことを指摘した。
科学では決められないトランス・サイエンス的課題、従来の専門知の最適解では社会が納得しないという厄介な問題に対しては、科学と政治と社会が協働した熟議(対話の場)による「成解」の形成が有効であると考えられてきた。事実、欧米では、原子力・エネルギー政策も含めて、コンセンサス会議、討論型世論調査、気候市民会議などの様々な熟議アプローチが、民主主義のイノベーションとして試みられている。
なぜ、日本では対話の場の形成が難しいのか しかし日本は、こうした国際的動向の外れ値というべき位置にある。なぜ、日本では原子力政策に関する科学と政治と社会の協働による政策対話の場の形成は難しいのだろうか。「失われた30年」という日本の経済社会の停滞が大きな要因であり、従来型の技術官僚モデルに基づく経産省が原子力政策を主導した体制となっており、市民の参加する「対話の場」を組み込みにくいガバナンス構造になっている。
こうした原子力ガバナンスの課題だけでなく、日本における原子力発電の歴史経緯をみると、原子力をめぐる社会的分断と対立が、対話を阻む大きな要因であると考えられる。原子力発電が導入された1950年代後半は、多くの国民は原子力の平和利用に対して積極的態度であった。しかし、1970年代の原子力船むつ放射能漏れ事故とアメリカのスリーマイル島原発事故を契機に、日本国内では反原子力の声が徐々に大きくなってきた。1986年のチェルノブイリ原発事故の影響で、原子力に対する負のイメージが幅広い市民の中に定着した。日本における原子力発電をめぐる状況は、原子力発電を推進する行政・専門家と反対する市民という二項対立の構造を形成した。双方の間のコミュニケーションはなく、「推進主体が反対派を説得するため」、あるいは「反対派が自らの主張をアピールするため」だけの議論になり,大多数の国民は原子力の議論に背を向けた。
1990年代に入ると、行政・専門家は情報発信の重要性を認識するようになり、原子力委員会主催の「原子力政策円卓会議」(1995年)をはじめとした反対派と推進派という立場を超えた対話の試みが行われた。しかし、高速増殖炉もんじゅの事故以降、原子力発電の不祥事やトラブルが続発し、原子力発電に関するコミュニケーションは,反対派と推進派の両極が固定化された状況に戻ってしまった。原子力発電をめぐる社会的分断と無関心という状況が、日本社会では長らく続いてきた。
2011年3月の福島原発(1F)事故以降の社会の状況は、一層複雑になった。1F事故を受け、反原発や脱原発の世論が多数となる状況が続いてきた。しかし、2022年2月のロシアのウクライナ侵略と気候変動問題の深刻化は、エネルギー安全保障や脱炭素社会への転換の重要性を示し、原子力発電を再評価する動きも顕著になっている。日本社会には、再び、原発推進と反原発という明確な二項対立が形成され,社会的分断と対立が深まり、多様な関係者の交流が困難になっている。多くの国民は、再び、原子力の議論から遠ざかりつつある。
本報告は原子力ガバナンスの課題と熟議の可能性について、1F廃炉と地層処分における熟議の試みから考える。具体的には、2022年から福島で始まった1F地域塾と北海道の寿都町、神恵内村における地層処分に関する対話の場の分析から、問題の構造を明らかにする。
なお、本研究は早稲田大学特定課題研究助成費(課題番号 2023C-561)による研究成果の一部である。
トランス・サイエンス的課題は、カリフォルニア大学の数学者リッテルと都市計画学者ウィーバーが1973年に提起した厄介な問題とほぼ同じ趣旨のものである(Rittel & Webber, 1973)。
トランス・サイエンス的課題は科学的予測の認識論的不確実性に焦点を当てたのに対し、厄介な問題は都市計画などを対象に、人々の価値観の多様化によって従来の専門知に基づく最適解では社会的受容性や社会的納得性を醸成できないことを指摘した。
科学では決められないトランス・サイエンス的課題、従来の専門知の最適解では社会が納得しないという厄介な問題に対しては、科学と政治と社会が協働した熟議(対話の場)による「成解」の形成が有効であると考えられてきた。事実、欧米では、原子力・エネルギー政策も含めて、コンセンサス会議、討論型世論調査、気候市民会議などの様々な熟議アプローチが、民主主義のイノベーションとして試みられている。
なぜ、日本では対話の場の形成が難しいのか しかし日本は、こうした国際的動向の外れ値というべき位置にある。なぜ、日本では原子力政策に関する科学と政治と社会の協働による政策対話の場の形成は難しいのだろうか。「失われた30年」という日本の経済社会の停滞が大きな要因であり、従来型の技術官僚モデルに基づく経産省が原子力政策を主導した体制となっており、市民の参加する「対話の場」を組み込みにくいガバナンス構造になっている。
こうした原子力ガバナンスの課題だけでなく、日本における原子力発電の歴史経緯をみると、原子力をめぐる社会的分断と対立が、対話を阻む大きな要因であると考えられる。原子力発電が導入された1950年代後半は、多くの国民は原子力の平和利用に対して積極的態度であった。しかし、1970年代の原子力船むつ放射能漏れ事故とアメリカのスリーマイル島原発事故を契機に、日本国内では反原子力の声が徐々に大きくなってきた。1986年のチェルノブイリ原発事故の影響で、原子力に対する負のイメージが幅広い市民の中に定着した。日本における原子力発電をめぐる状況は、原子力発電を推進する行政・専門家と反対する市民という二項対立の構造を形成した。双方の間のコミュニケーションはなく、「推進主体が反対派を説得するため」、あるいは「反対派が自らの主張をアピールするため」だけの議論になり,大多数の国民は原子力の議論に背を向けた。
1990年代に入ると、行政・専門家は情報発信の重要性を認識するようになり、原子力委員会主催の「原子力政策円卓会議」(1995年)をはじめとした反対派と推進派という立場を超えた対話の試みが行われた。しかし、高速増殖炉もんじゅの事故以降、原子力発電の不祥事やトラブルが続発し、原子力発電に関するコミュニケーションは,反対派と推進派の両極が固定化された状況に戻ってしまった。原子力発電をめぐる社会的分断と無関心という状況が、日本社会では長らく続いてきた。
2011年3月の福島原発(1F)事故以降の社会の状況は、一層複雑になった。1F事故を受け、反原発や脱原発の世論が多数となる状況が続いてきた。しかし、2022年2月のロシアのウクライナ侵略と気候変動問題の深刻化は、エネルギー安全保障や脱炭素社会への転換の重要性を示し、原子力発電を再評価する動きも顕著になっている。日本社会には、再び、原発推進と反原発という明確な二項対立が形成され,社会的分断と対立が深まり、多様な関係者の交流が困難になっている。多くの国民は、再び、原子力の議論から遠ざかりつつある。
本報告は原子力ガバナンスの課題と熟議の可能性について、1F廃炉と地層処分における熟議の試みから考える。具体的には、2022年から福島で始まった1F地域塾と北海道の寿都町、神恵内村における地層処分に関する対話の場の分析から、問題の構造を明らかにする。
なお、本研究は早稲田大学特定課題研究助成費(課題番号 2023C-561)による研究成果の一部である。