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[MIS24-P02] 日本の古文書に登場する“軽石“とその呼称・意味の変容
キーワード:軽石、本草書、貝原益軒、小野蘭山
火山地質学に関わる論文や報告書をたどると、かつては軽石をさす専門用語として“浮石(フセキ)”という言葉が広く使われていた。この“浮石”という語がいつごろから使われていたかを調査したところ、3世紀後半~4世紀にかけて成立した「呉都賦」および「交州記」という漢籍に登場することが分かった(青木、本大会発表)。“浮石”は、10世紀ごろには中国の本草書に取り込まれて日本にも伝来した。一方で、日本の平安時代中期の承平年間(AD931~AD938)に編纂された「倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」では、“浮石、和名加留以之”、すなわち(漢語の)“浮石”の和名は“加留以之”であると万葉仮名で記載されていることから、平安時代には漢籍に登場する“浮石”が日本語で“軽石”と呼んでいるものに相当するという認識があったということになる。
ところで、上記の書物では”浮石“および”軽石“の成因については触れられていない。また、明代に成立した中国の本草書である李時珍の「本草綱目」では、”浮石“は海の泡と砂が混ざることで作られると説明がなされており、江戸時代に日本人によって著された本草書の“浮石”の成因は、基本的に李時珍の「本草綱目」を引用している。そこで、日本語の中で”軽石“という語がどのように使われてきたのかを時系列に並べ記述内容を比較することで、日本語の中で”軽石“と火山が結びついた時期を推定した。
角川古語大辞典では、“かるいし”という語の用例として6冊の依拠本を挙げられている。「倭名類聚抄」、「山科家礼記」、「葉隠集」、「和漢三才図会」、「理学秘訣」の5冊では、“かるいし”は我々が認識している軽石と同一のものとして認識されている。一方で、「排風柳多留」に登場する“かるいし”は物の例えあるいは隠喩として使用されている。本論では、“かるいし”という語がどのように認識されていたかをたどること目的としていることから、前述の5冊を検討対象とした。「倭名類聚抄」については冒頭に述べた通りである。唯一の中世の文書の用例である「山科家礼記」では、文明9年閏正月29日(1477年)の記事では、風呂で軽石を使って月代の手入れをする方法について記載され、「かるいし」とひらがなで記述されている。「和漢三才図会」は、大坂の医師である寺島良安が編纂し1712年(正徳2年)に発表した105巻に及ぶ類書(百科事典)で、少年時代の南方熊楠が筆写したことで知られる。第61巻雑石類の中に“浮石”が登場して“かるいし“と振り仮名がかかれている。「葉隠集」は佐賀藩士田代陣基が山本常朝の言葉を口述筆記したもので、1716年にまとめられた。武士の身嗜みについての話題として「手足の爪を切って輕石にて摺り」という場面で軽石が登場する。鎌田柳泓が書き著した「理学秘訣」は、西尾市岩瀬文庫に所蔵されている1816年(文化13年)出版の原本マイクロフィルムからの複写を確認すると「浮石」に“カルイシ”と振り仮名が書かれている。これは、鎌田柳泓自身が出版当時から振り仮名を付していることを意味しており、当時は浮石と漢語で表記しながらも、読み方としては和語が使われていたことが推察できる。上記の“かるいし”の用例を鑑みると、日本語の古語としては“かるいし”という呼称で読まれていたといえる。漢語である“浮石”で表記した場合でも、一般的な日本語としての読み方は“かるいし”が使われていた可能性が高い。そして、上記の書物の中で、軽石と火山の関連にふれられているのは「理学秘訣」のみである。また、古文書には歴史上知られている火山噴火に関する記述が残されているが、“かるいし”が登場する文章を見つけることができなかった。
さらに、江戸時代に編纂された本邦の本草書の“浮石“の記述をたどると、18世紀初頭の貝原益軒の「大和本草」では李時珍の「本草綱目」の説明を踏襲しているが、19世紀初頭の小野蘭山の「本草綱目啓蒙」では李時珍が唱えた浮石の成因を否定しており、少なくとも本邦では伊豆大島や桜島のような火山の噴火で見られることから、”浮石“は火山活動が成因であると説明している。18世紀ごろの本草学者の記述内容を俯瞰すると、浅間山周辺で山にも“浮石”がみられる地域があることや(阿部将翁著、1758年;「採薬使記」)、近江の山中で“浮石”が見つかることが記述されている(木内石亭著、1773年:「雲根志」)。つまり、この時期に“浮石”は海と結びついた産物という認識から、海だけではなく内陸あるいは山中でも見つかるものとして、その分布に関する認識が転換していったことがうかがえる。これは、18世紀後半に桜島、伊豆大島、浅間山、青ヶ島といった、大規模な火山噴火が頻発したことと大きく関連していると考えられる。
ところで、上記の書物では”浮石“および”軽石“の成因については触れられていない。また、明代に成立した中国の本草書である李時珍の「本草綱目」では、”浮石“は海の泡と砂が混ざることで作られると説明がなされており、江戸時代に日本人によって著された本草書の“浮石”の成因は、基本的に李時珍の「本草綱目」を引用している。そこで、日本語の中で”軽石“という語がどのように使われてきたのかを時系列に並べ記述内容を比較することで、日本語の中で”軽石“と火山が結びついた時期を推定した。
角川古語大辞典では、“かるいし”という語の用例として6冊の依拠本を挙げられている。「倭名類聚抄」、「山科家礼記」、「葉隠集」、「和漢三才図会」、「理学秘訣」の5冊では、“かるいし”は我々が認識している軽石と同一のものとして認識されている。一方で、「排風柳多留」に登場する“かるいし”は物の例えあるいは隠喩として使用されている。本論では、“かるいし”という語がどのように認識されていたかをたどること目的としていることから、前述の5冊を検討対象とした。「倭名類聚抄」については冒頭に述べた通りである。唯一の中世の文書の用例である「山科家礼記」では、文明9年閏正月29日(1477年)の記事では、風呂で軽石を使って月代の手入れをする方法について記載され、「かるいし」とひらがなで記述されている。「和漢三才図会」は、大坂の医師である寺島良安が編纂し1712年(正徳2年)に発表した105巻に及ぶ類書(百科事典)で、少年時代の南方熊楠が筆写したことで知られる。第61巻雑石類の中に“浮石”が登場して“かるいし“と振り仮名がかかれている。「葉隠集」は佐賀藩士田代陣基が山本常朝の言葉を口述筆記したもので、1716年にまとめられた。武士の身嗜みについての話題として「手足の爪を切って輕石にて摺り」という場面で軽石が登場する。鎌田柳泓が書き著した「理学秘訣」は、西尾市岩瀬文庫に所蔵されている1816年(文化13年)出版の原本マイクロフィルムからの複写を確認すると「浮石」に“カルイシ”と振り仮名が書かれている。これは、鎌田柳泓自身が出版当時から振り仮名を付していることを意味しており、当時は浮石と漢語で表記しながらも、読み方としては和語が使われていたことが推察できる。上記の“かるいし”の用例を鑑みると、日本語の古語としては“かるいし”という呼称で読まれていたといえる。漢語である“浮石”で表記した場合でも、一般的な日本語としての読み方は“かるいし”が使われていた可能性が高い。そして、上記の書物の中で、軽石と火山の関連にふれられているのは「理学秘訣」のみである。また、古文書には歴史上知られている火山噴火に関する記述が残されているが、“かるいし”が登場する文章を見つけることができなかった。
さらに、江戸時代に編纂された本邦の本草書の“浮石“の記述をたどると、18世紀初頭の貝原益軒の「大和本草」では李時珍の「本草綱目」の説明を踏襲しているが、19世紀初頭の小野蘭山の「本草綱目啓蒙」では李時珍が唱えた浮石の成因を否定しており、少なくとも本邦では伊豆大島や桜島のような火山の噴火で見られることから、”浮石“は火山活動が成因であると説明している。18世紀ごろの本草学者の記述内容を俯瞰すると、浅間山周辺で山にも“浮石”がみられる地域があることや(阿部将翁著、1758年;「採薬使記」)、近江の山中で“浮石”が見つかることが記述されている(木内石亭著、1773年:「雲根志」)。つまり、この時期に“浮石”は海と結びついた産物という認識から、海だけではなく内陸あるいは山中でも見つかるものとして、その分布に関する認識が転換していったことがうかがえる。これは、18世紀後半に桜島、伊豆大島、浅間山、青ヶ島といった、大規模な火山噴火が頻発したことと大きく関連していると考えられる。