日本地球惑星科学連合2025年大会

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[J] ポスター発表

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[M-ZZ41] 地球科学の科学史・科学哲学・科学技術社会論

2025年5月26日(月) 17:15 〜 19:15 ポスター会場 (幕張メッセ国際展示場 7・8ホール)

コンビーナ:矢島 道子(東京都立大学)、青木 滋之(中央大学文学部)、山田 俊弘(大正大学)、山本 哲

17:15 〜 19:15

[MZZ41-P03] 小藤文次郎博士は玄武洞のどの玄武岩標本を調べたのか?

*川村 教一1 (1.兵庫県立大学大学院 地域資源マネジメント研究科)

キーワード:玄武岩、玄武洞、小藤文次郎、明治時代

兵庫県の玄武洞で採石されていた岩石(basalt)に対し、1884(明治17)年に小藤文次郎博士により「玄武岩」の和名が与えられた(小藤、1884)。しかし、この時までに小藤博士が現地を訪れた調査記録は知られていない。もし、現地に赴いていないとすれば、どこかで標本を観察する機会があったはずである。博士は玄武洞のどの玄武岩標本を観察したのだろうか。
そもそも、18世紀の江戸時代には、現在の兵庫県豊岡市の玄武洞で産した石材は、「石山石」と呼ばれていた(木内、1773)。この石材が19世紀には「玄武石」と呼ばれていたことは川村(2024)で報告した。京都在住の本草学者でもあった山本錫夫(榕室)『六十六州産物録』の但州の項目に、「灘石」(灘山産)、「玄武石」(玄武洞産;『物産目録』)の名前もあり、「玄武石」の出典は錫夫の父である山本亡羊が始めた物産会のリストを指していると思われる。但馬産の「玄武石」は、1826(文政9)年の物産会目録に記載がある。その6年後、錫夫は1832(天保3)年に玄武洞を訪れて「玄武石」を採集している(山本、1832)。
 19世紀の後半、明治になり、1873(明治6)年までに澳国博覧会事務局が収集した標本に「灘石」がある(内務省博物局、1880)。澳国博覧会のために収集された標本は博物館に買い取られている。また、1881(明治14)年に東京で開催された第2回内国勧業博覧会の出品目録(内国勧業博覧会事務局、1881)には、豊岡市赤石から「玄武凋雛形」なるもの出品があったが、これは「玄武洞雛形」の誤植である。さらに、『本邦金石産地考』(著者不明、1881年写)の「灘石」の欄には「玄武洞石」も併記されている。これらのことから「灘石」標本が東京に送られただけでなく、「玄武石(玄武洞石)」の名称も伝わっていたはずである(川村、2024)。当然、小藤はこのことを知っていたはずで、博物館収蔵の玄武洞の「灘石」を観察することが可能であった。東京にはこの標本しかなかったとは断定できないが、博士は博物館に収蔵された標本を観察し、「玄武岩」を命名したと推測される。

引用文献 
川村教一(2024):近世において但馬国豊岡近郊、玄武洞から産した石材名の変遷。地質と文化、第7巻第1号、29。
木内小繁重暁(1773):雲根志 後編4巻。伊丹屋善兵衛。
小藤文次郎(1884):金石学 一名鉱物学。小藤文次郎、163ページ。
内国勧業博覧会事務局(1881):第二回内国勧業博覧会出品目録。
内務省博物局(1880):博物館列品目録 天産の部 鉱物類・地質類。
山本錫夫(1832):山陰四州採薬記。https://lab.ndl.go.jp/dl/book/2558769。
山本錫夫(刊行年不明):六十六州産物録。日本鉱業史料集刊行委員会編(1991)、日本鉱業史料集/第14期 近世篇 上、中、白亜書房所収。
京都府立京都学・歴彩館山本読書室資料、目録番号2363、読書室物産会目録 自第一号至第五十号(一括)、文化5年~慶応3年。
[著者不明](1881写):本邦金石産地考。東京国立博物館デジタルライブラリー(2015)https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/2551。