日本地球惑星科学連合2025年大会

講演情報

[J] 口頭発表

セッション記号 S (固体地球科学) » S-VC 火山学

[S-VC34] 火山・火成活動および長期予測

2025年5月27日(火) 15:30 〜 17:00 コンベンションホール (CH-B) (幕張メッセ国際会議場)

コンビーナ:長谷川 健(茨城大学理学部地球環境科学コース)、上澤 真平(電力中央研究所 サステナブルシステム研究本部 地質・地下環境研究部門)、清杉 孝司(神戸大学理学研究科惑星学専攻)、及川 輝樹(国立研究開発法人産業技術総合研究所)、座長:清杉 孝司(神戸大学理学研究科惑星学専攻)、渡部 将太(山梨県富士山科学研究所)

15:30 〜 15:45

[SVC34-07] 草津白根火山1882(明治15)年噴火記録の再検討

*草野 有紀1及川 輝樹1 (1.産総研 地質調査総合センター)

キーワード:水蒸気噴火、草津白根火山、白根火砕丘、1882年

噴火当時の人々の記録を基に,現在の火山学で解釈し直し詳しい噴火推移などの復元を行うことは,地質記録に残りにくい現象をも高い時間分解でまとめられることから,火山学・防災上有益である.有史以降の草津白根火山の噴火は1805年から確認されているが,古い時代の記録は,今日的な火山学の知識で噴火推移をまとめ直されたものはほとんどない.このうち,1882年の噴火は,噴火当時の状況は周辺住民への聞き取り結果が中心となっている上,文献ごとに噴火現象の観察地点が分散して全体像がつかみにくいという特徴がある.そこで本報告では,1882年の噴火記録について,できる限り噴火当時の文献を直接調査し,複数の記述を照らし合わせ,不確実な内容を棄却した確からしい情報を基に噴火推移の復元を行った.
1805年の噴火から1882年噴火前まで
古老からの聞きとりを基に,1882年の一つ前の噴火は,1805年に発生したことが知られている(八木,1931).ただし,その文献も噴火から100年以上たっているものであるため,古老が噴火を直接体験したとは限らない.そのため,噴火の発生年や噴火現象などの証言は不確かさが残るが,19世紀初め頃に噴火があった可能性は高い.一方,1810年に成立した草津温泉を紹介する絵図『上州草津温泉大図』には草津白根に噴気ないし噴煙が描かれている.その後は噴気・噴煙が絶えたらしく,1879年『上州草津温泉之全図』には描かれていない.噴火前,水釜と湯釜には水盆があったが,水際まで草や小樹が生えていた(大橋,1914等)ことから,約70年間噴火は発生しておらず,植物の成長を妨げるほどの量・濃度の火山ガスも出ていなかったと推定される.
1882年の噴火の推移
噴火の前兆の記録としては,1882年7月(「噴火の30日前」)から山頂付近で鳴動が発生したことがあげられる.この鳴動発生によって,山頂付近にいた硫黄抗夫は下山したことが記録されている(大橋,1914).
噴火は8月6日に発生した.13~14時の間に噴火があり,草津町では遠雷のように聞こえるのみで,降下火砕物は火山から北西の渋峠方向に泥雨状に降った(Nauman, 1893; 大橋,1914).6日夜にも嬬恋村干俣(火口から南に約10 km)で爆音が聞こえ、翌朝降灰を確認した(碧海,1916).また,火口から550 mの距離で最大0.6×0.3 mの火山岩塊が確認され,岩片は「円錐の斜面上に落下し地面に食い込んだ」と記載がある(Nauman, 1893).これは,岩片が白根火砕丘の斜面上に衝突痕を残していたことを意味する.またこれらの岩片の分布域の記述(Nauman, 1893; 大橋,1914; 八木,1931)にずれがあるが,各記述は観察者が見た道沿いと考えると,湯釜火口近傍では火山岩塊~火山礫も火口から四方に放出されたと推定される.
8月6日に形成された火口は湯釜内の馬蹄形火口(径約200 m)のほか8か所で,「蒸気と共に岩片と泥を吹き上げた」と記録されている.その高度は7日に湯釜北方の芳ガ平方面から確認したもので「高さ30 mの水柱」,10日には高さ10 m幅4 m,9月7日でも高さ7 mまで噴騰した.泥土・岩片混じりの噴出は8月11日頃まで続いていた(Nauman, 1893; ベルツ,1979).これらの記述から,噴火開始から6日間程度は,コックステイルジェット噴煙が見られた可能性がある.噴出は次第に間欠的になり,蒸気に含まれる岩片も減っていったが,1か月後でも蒸気が上がっていた.また,8月9日に湯釜内に新たに4つの火口(最大径5.5 m)が確認され,ここから8月16日まで熱い水が流出した(Nauman, 1893).
この噴火で噴出した「泥」は「落下し毒水沢に注ぎ込み,多くの橋をおし流し」,「吾妻川より利根川に及び,前橋付近に至るまでは」多くの魚が死んだと記録されている(Nauman, 1893; 碧海,1916).この噴火が無雪期に発生し,熱水のみを流出する火口があったことを踏まえると,火口噴出型ラハールを発生していた可能性もある.
9月7日以降の火口周辺の詳細な記述は確認されていないが,噴火の6年後(1888年)には,湯釜北部の数か所から噴気が上がる程度になっていた(津屋,1933).また,噴火の30~40年後の古老への聞き取りによれば,湯釜の東側から長野県側の木々の立ち枯れは,この1882年の噴火によるそうである(碧海,1916; 八木,1931).
湯釜火口内で噴火堆積物が最大厚さ1.3 mという記録と,火口から北西5 km地点の草木への降灰記録(Nauman, 1893)に基づいて,Legros (2000)等の方法で噴出量を見積もったところ,既報の噴出量と桁は変わらない(106 m3オーダ)ことを確認した.

引用文献
大橋(1914)地質雑,22,422-441;碧海(1916)東洋学芸雑誌,33(422),828-832;八木(1931)『上高井郡地質誌』信濃教育会, p. 230;山下 昇 訳(1996)『日本地質の探求 : ナウマン論文集』;トク・ベルツ 編(1979)『ベルツの日記(下)』;関戸明子(2018)『草津温泉の社会史』;Legros, F.(2000)J. Volcanol. Geotherm. Res., 96, 25-32.