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[HDS16-15] 慶長9年12月16日(1605-II-3)地震による房総半島沿岸での津波高さ分布
キーワード:1605年慶長地震津波、歴史地震、歴史津波、房総半島、日本海溝
慶長9年12月16日の地震による津波の記録は、千葉県房総半島から、伊豆、浜名湖地方、四国南岸、さらに大分県米水津にまで分布している。本研究では千葉県房総半島の津波分布を解明した。『房総治乱記』には「潮大山ノ如クニ巻上テ、浪村山ノ七分ニ打カクル、(中略)先潮災ニ逢シハ」という文に続けて、外房海岸に沿った35個の集落名が列挙されている。この35個の集落の位置を図中に「○」印で示した。記載の順序は、現在の勝浦市の辺原(部原)に始まって西に向かって被災集落名を挙げていき、房総半島最南端付近の横渚(よこすか)まで達する。このあとは、勝浦の東隣の御宿から順次東に向かって列挙し、最後は現在の九十九里町の片貝と不動堂まで達して終わる。浸水範囲、家屋や人間の被害の状況などの記載は全くなく、ひたすら地名が列挙されているのである。ここに挙げられた集落を現代の地図にプロットすると、勝浦から西、誕生寺のある小湊までの、約12kmの海岸線区間内の集落名が一つもないことが分かる。この間では「潮災ニ逢シハ」に挙げるほどの津波被害は生じていなかった事を示している。この無被害海岸区間内の興津の集落に、1264年に開基された妙覚寺があり、津波による近隣集落の被災を記録した古文書を所持している。この寺自身や興津集落の被害には言及していないので、これらは無事であった、と理解される。今回の調査で、この寺の境内の標高は5.1mで有ることが判明した。ここでは津波はこの高さには達して居らず、興津集落にも津波被害は出なかったと推定される。江戸時代初期の基本史料である『当代記』には、「上總國小田喜領海邊取分大波来テ、人馬數百人死、中ニモ七村ハ跡ナシト云々」と書かれている。この「小田喜領」は大多喜城本多氏の支配する範囲であって、伊藤(2005)によると、これは現在のいすみ市域の海岸線に並ぶ旧7ヶ村であることが、最近発見された古文書で確認された。この「跡ナシ」となった7ヶ村のうち4ヶ村が『房総治乱記』の挙げられた35ヶ村のなかに挙げられている。また、鴨川市天面(あまつら)の西徳寺所蔵の『西徳寺縁起』には、天面も一戸残らず流失したと記されているが、天面もこの被災35ヶ村の一つに挙げられている。『房総治乱記』は軍記物語であって、一般的には信憑性は高くないとされるが、上述のように3件の信憑性の高い他の古文書の被災集落に関する記録と符合していることから、『房総治乱記』の被災集落の記述は信頼のおけるものと考えるべきであろう。『房総治乱記』の「潮災二逢シハ」の表現は、「人家屋は無被害、田畑だけ被害の場合にも該当するではないか?」という疑問に答えておこう。被災35ヶ村のうち、いすみ市内4ヶ村、および鴨川市天面の1ヶ村の合計5ヶ村は、他史料によってすべて「跡なし」、あるいは「全戸流失」であることがわかった。「全戸流失」を白い玉、「半数程度流失」を赤い玉、「少数家屋の流失」を黄色い玉、「家屋流失はなく破損のみ」を緑の玉、「家屋被害はなく田畑のみ被害」を青い玉とし、この5種類の玉35個が入った袋があったとする。この袋から無作為に取り出した5個の玉の色がすべて白(全戸流失)であったとき、この袋の中の玉の色別個数分布に関して何が言えるであろうか?統計的検定の危険率5%の判断で、袋の中の35個のうち19個以上が白い玉でないとこうはならないことがわかる。すなわち、『房総治乱記』に記されて35ヶ村のうち少なくとも19ヶ村が全戸流失、残り16ヶ村も半数近い家屋が流失した、と判断するのが妥当であろう。
そこで我々は、この35個の村に『当代記』にだけ記録された3ヶ村、および後世に分村された村など5ヶ所を加えて、合計43個の集落の地盤標高を測定した。測定は明治期の五万分の一地形図に表記された集落に付き、集落の代表的中心点P、および集落市街地内の標高最高点Qの2点について測定した。「全戸流失」、あるいは「過半流失」は地上冠水3.0m以上の場合に発生する。また、「全戸流失」の場合には、市街地の最高所の家屋も流失したはずである。そこで、Pに3.0mを加えた値とQの値とを比較し、全戸流失が明らかな8ヶ村では、この両数値の大きい方、それ以外の村では両数値のうち小さい方をそこでの津波浸水高さと推定して図の津波高さ分布図を得た。図中「◆」印、およびグラフの太線は『当代記』に「跡なし」と書かれた7ヶ村である。図中「△」印の2点は津波被害がなかった2ヶ村である。房総半島で10mを超える浸水高を記録した場所が複数存在する。この津波高分布から推定して、この地震は東海地震ではあり得ないであろう。
謝辞:この研究は原子力規制庁からの受託業務「平成28年度原子力施設等防災対策等委託費(太平洋沿岸の歴史津波記録の調査)事業」(代表:東北大学 今村文彦)の成果の一部をとりまとめたものである。
そこで我々は、この35個の村に『当代記』にだけ記録された3ヶ村、および後世に分村された村など5ヶ所を加えて、合計43個の集落の地盤標高を測定した。測定は明治期の五万分の一地形図に表記された集落に付き、集落の代表的中心点P、および集落市街地内の標高最高点Qの2点について測定した。「全戸流失」、あるいは「過半流失」は地上冠水3.0m以上の場合に発生する。また、「全戸流失」の場合には、市街地の最高所の家屋も流失したはずである。そこで、Pに3.0mを加えた値とQの値とを比較し、全戸流失が明らかな8ヶ村では、この両数値の大きい方、それ以外の村では両数値のうち小さい方をそこでの津波浸水高さと推定して図の津波高さ分布図を得た。図中「◆」印、およびグラフの太線は『当代記』に「跡なし」と書かれた7ヶ村である。図中「△」印の2点は津波被害がなかった2ヶ村である。房総半島で10mを超える浸水高を記録した場所が複数存在する。この津波高分布から推定して、この地震は東海地震ではあり得ないであろう。
謝辞:この研究は原子力規制庁からの受託業務「平成28年度原子力施設等防災対策等委託費(太平洋沿岸の歴史津波記録の調査)事業」(代表:東北大学 今村文彦)の成果の一部をとりまとめたものである。