JpGU-AGU Joint Meeting 2017

講演情報

[JJ] ポスター発表

セッション記号 H (地球人間圏科学) » H-DS 防災地球科学

[H-DS16] [JJ] 津波とその予測

2017年5月24日(水) 15:30 〜 17:00 ポスター会場 (国際展示場 7ホール)

コンビーナ:行谷 佑一(国立研究開発法人 産業技術総合研究所 活断層・火山研究部門)、山本 直孝(防災科学技術研究所)

[HDS16-P06] 和歌山県田辺市・串本町間の海岸での宝永地震(1707)および安政南海地震(1854)の津波高分布

*矢沼 隆1都司 嘉宣2石塚 伸太朗1上野 操子1松岡 祐也3小田桐(白石) 睦弥4佐藤 雅美5芳賀 弥生5今村 文彦5 (1.株式会社パスコ、2.公益財団法人 深田地質研究所、3.東北大学、4.花巻市博物館、5.東北大学災害科学国際研究所)

キーワード:宝永地震、安政南海地震、歴史地震、津波災害

紀伊半島の和歌山県側の田辺市と最南端の串本町の海岸は、歴代の南海地震の震源域の近傍に位置する海岸であって、常に大きな津波被害を生じてきた。この海岸をおそった昭和21年(1946)昭和南海地震の記念碑は、数多く見つけることができる。江戸時代にもこの海岸は、宝永地震(1707)、および安政南海地震(1854)の津波による被災記録が数多く残されている。これらの歴史記録に基づく現地調査と津波浸水、あるいは遡上高さの推定は、羽鳥(1980)によって概略の調査が行われた。しかし、その後37年もの年月が経過して新たな地震史料集の刊行、あるいはGPSを応用した測定技術の進歩によって、より細密な調査が可能となってきた。本研究では主として、田辺市から串本町までの海岸を対象として、武者(1941,1951)の「増訂大日本地震史料」、および地震研究所から刊行された「新収 日本地震史料 Ⅲ、Ⅴ別巻5-2、補遺、続補遺」(1983,1987,1989,1994)に掲載された古文献から集落の津波被害、浸水範囲、および津波到達点の情報を含む記録を抽出してデータベースを作成し、集落ごとに集計して調査指針ノートを作成し、2017年1月17日から20日まで、3泊4日の現地調査および標高測量を行った。

 古文献記録に、津波到達点がピンポイントで示されている場合には、その記載に従って現地で標高測定を行いその数値を津波高さとした。集落での浸水、破損、全壊、あるいは流失家屋数の記録のみが残っている場合には、当時の全戸数に対する比率を算出し、地上冠水厚さを推定し、これを集落の代表点の標高に加えることによって浸水高を推定した。江戸時代の各津波被災集落の市街地の広がり具合を知るため、現代の二万五千分の一地形図とともに明治期の五万分の一地形図を入手しておいた。江戸期の集落の形状は、明治期のそれと大差ないのが通常である。今回の調査点の大部分は旧熊野街道(大辺路)沿いに市街地が存在するため、原則として旧熊野街道上の集落代表点を一点選択してその標高を測定し、越村ら(2009)を参照して、①大多数の家屋の流失、または全潰の場合は地上冠水厚さは3mかそれ以上とする、②10%~70%程度の家屋流失、又は全潰の場合は地上冠水厚さは2mとする、③数軒の流失は冠水厚さは1.5m、④ただ1軒の流失全壊、あるいは破損、浸水にとどまる場合には、地上冠水厚さは1mとして、集落の代表点の標高に加えることとした。

 田辺市新庄地区は、すでに同地区の公民館によって、津波到達位置の調査と、石碑の建立、測定が行われているので、今回の調査では、新庄地区での測定は東光寺門前峠点(ドウの坂)のただ1点だけ調査を行うにとどめた。

 得られた宝永地震(1707、左図)、および安政南海地震(1854、右図)の津波浸水高分布を図に示す。宝永地震の津波では、田辺の中心市街地を構成する本町、紺屋町、片町では総家数411軒で、流失154軒、潰家158軒、大破119軒を出した(田所氏記録」)。この3町の標高は2.0~2.2mであるため、地上冠水3mとして、ここでは浸水高5.1mとする。田辺市街地背後の天王池の際(きわ)まで浸水したとされ、その遡上高は7.8mと推定される。新庄地区では、新庄の谷筋と、その南隣の跡ノ浦の谷筋をさかのぼった海水が、その東光寺門前下の峠点で合流したと伝えられ、ここでは海水は標高12.8mに達したことが確認できた。さらに白浜町富田(とんだ)の高井集落は、全体が標高6.8mの高所にありながら、周辺の集落とともに「一軒も残らず」と記録されている。さらに、すさみ町周参見の万福寺の宝筐印塔は、宝永地震の16年後の1723年に建てられたものであるが、これには宝永津波によって134人の死者があったことを示している。この死者数は当時の周参見の総人口の何割という死者率であったはずである。周参見の市街地の大部分の家屋の流失、あるいは全潰を伴っていたことは必然的である。周参見を縦貫する熊野古道の集落の中心付近の標高は、4.4mであったが、地上冠水厚さを3mと推定して、ここでの浸水高さは7.3mと推定する。宝永津波では、田辺から周参見付近まで、津波高さはおしなべて7~13mであったことは注目すべきである。安政南海地震(1854)の津波は、田辺市・白浜町では4~6m程度であったが、串本町に近づくにつれて津波高さが高くなる傾向が見られる。

謝辞:この研究は原子力規制庁からの受託業務「平成28年度原子力施設等防災対策等委託費(太平洋沿岸の歴史津波記録の調査)事業」(代表:東北大学 今村文彦)の成果の一部をとりまとめたものである。