JpGU-AGU Joint Meeting 2017

講演情報

[EJ] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-IS ジョイント

[M-IS09] [EJ] 津波堆積物

2017年5月23日(火) 13:45 〜 15:15 201A (国際会議場 2F)

コンビーナ:篠崎 鉄哉(筑波大学アイソトープ環境動態研究センター)、千葉 崇(北海道大学大学院理学研究院附属地震火山研究観測センター)、石村 大輔(首都大学東京大学院都市環境科学研究科地理学教室)、後藤 和久(東北大学災害科学国際研究所)、座長:石村 大輔(首都大学東京大学院都市環境科学研究科)

14:30 〜 15:00

[MIS09-15] 多様な歴史資料に基づく学際的な歴史津波研究の可能性―1611年慶長奥州地震津波を事例に―

★招待講演

*蝦名 裕一1 (1.東北大学災害科学国際研究所)

キーワード:1611年慶長奥州地震津波、歴史資料、学際的歴史津波研究、歴史的な地形の可視化

日本には、1,000年以上前から作成された様々な古文書が存在している。特に17世紀以降は、江戸時代には民衆の識字率の向上により、多種多様かつ膨大な歴史資料が存在している。本研究では、これらの多様な日本の歴史資料に基づいて、学際的な歴史津波研究の手法を考えていく。そのために1611年に現在の日本の東北地方太平洋沿岸で発生した地震津波(本研究では慶長奥州地震津波と呼ぶ)を事例として考えていく。
近年、東北地方太平洋沿岸では、15世紀以降に発生した津波によるものとみられる堆積層が多数の地点から発見されている。この堆積物をもたらしたイベントとしては、1454年説と1611年説と評価が分かれている。これを根拠とする歴史資料の性格から分析する。1454年の津波イベント説の根拠となる資料としては、同時期に成立した『王代記』が挙げられる。しかし、津波の被災地(奥州=現在の東北地方)から遠い場所で成立した史料であるとともに、伝聞を書き留めた史料である。また、当時の単位をふまえて文章を分析すると、その被災範囲は約60Kmまたは400Kmとも解釈することが可能であり、その実態がわかりにくい。一方、1611年説の根拠となる歴史資料は、発生年代に近い時代に作成された史料や後年に複写された史料などが多数存在している。その記述内容を分析すると、①岩手県宮古市の小本家の記録に基づく史料、②岩手県山田町の『武藤六右衛門所蔵文書』から派生した史料、③大槌町の大槌代官所に由来する史料、④宮城県の仙台藩に伝来した史料、⑤福島県相馬市の相馬中村藩に伝来した史料、に分類することができる。こうした複数の情報源の存在から、15世紀付近に岩手県から福島県にかけて広範囲に被害をもたらした津波は1611年の津波と考えるのが妥当である。
また、歴史資料から昔の地形を復元することで、歴史災害の様相をより詳細に解明することが可能になる。岩手県宮古市には、1611年の慶長奥州地震津波における被害の記録や伝承がいくつか残されている。『古実伝書記』という史料には、慶長奥州地震津波の際,、閉伊川を河川遡上した津波が小山田に到達し、津波によって船が漂着したことが伝わる。さらに、宮古市田の神には1989年に設置された「一本柳の跡」という碑があり、江戸時代に発生した津波によりかつてこの場所に存在した一本柳に舟を繋ぎ止めたという伝承が記されている。これらの津波痕跡地点は、2011年の津波による浸水範囲よりさらに内陸に位置している。ここから考えると1611年の津波は2011年の津波よりも規模が大きかったことになる。しかし、歴史的な地形を復元して考えると、この説は成立しない。陸軍陸地測量部が作成した「5万分1地形図」をもとに約100年前の地形を復元すると、宮古市の中央を流れている閉伊川は小山田の山肌近くを流れている。また、宮古市街地中央を山口川が流れていたことが確認できる。すなわち、慶長奥州地震津波の津波痕跡地点は旧河川の流路上に存在しており、記録・伝承の内容を津波の河川遡上で説明することが可能となる。
このように、歴史資料の災害に関する記述のみではなく、史料の成立背景や、直接災害に関係しない史料も踏まえて分析をすることで、歴史災害を詳細に解明することが可能となる。