JpGU-AGU Joint Meeting 2017

講演情報

[JJ] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-ZZ その他

[M-ZZ42] [JJ] 地球科学の科学史・科学哲学・科学技術社会論

2017年5月21日(日) 09:00 〜 10:30 A07 (東京ベイ幕張ホール)

コンビーナ:矢島 道子(日本大学文理学部)、山田 俊弘(東京大学大学院教育学研究科研究員)、青木 滋之(会津大学コンピュータ理工学部)、吉田 茂生(九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門)、座長:山田 俊弘(東京大学大学院教育学研究科研究員)、座長:矢島 道子(日本大学文理学部)

09:15 〜 09:30

[MZZ42-02] エアフルト大学ゴータ研究図書館のエドムント・ナウマン関係資料

*島津 俊之1 (1.和歌山大学教育学部地理学教室)

キーワード:地球科学史、地理学史、アーカイブ資料、ペルテス・コレクション、ペーターマン地理学報告、地図学

学史研究の世界では,書物や雑誌等の印刷媒体に加えて,官庁や民間機関や個人が作成したアーカイブ資料が重視される。エドムント・ナウマンのアーカイブ資料は,すでに幾つか知られている。国内資料としては,国立公文書館デジタルアーカイブを通じて,お雇い外国人として明治政府に出仕した諸記録を検索・閲覧できる。海外資料としては,ミュンヘン大学文書館所蔵のものが知られる。同大学から授与された博士号や大学教員資格に関する諸記録,そして私講師として教えたことに関わる諸記録であり,これらは『ナウマン博士データブック』(フォッサマグナミュージアム,2005)に写真複製の形で収められている。本発表で紹介するのは,従来知られていなかった,ドイツの小都市ゴータに存在するナウマンのアーカイブ資料である。ゴータには,現在の英国王室やベルギー王室につながる,ザクセン=コーブルク=ゴータ家の宮廷の一つが置かれた。またゴータは,1875年のドイツ社会主義労働者党の結成時に採択され,後にカール・マルクスが批判した「ゴータ綱領」により,その名が知られることになった。そしてゴータは,ユストゥス・ペルテスによって,後に『ペーターマン地理学報告』などの学術誌や数多くの地理書・地図帳の刊行で知られることになる出版社が,1785年に設立された地でもあった。ゴータのペルテス社は,19世紀半ばから20世紀前半にかけて,世界に名だたる地理的知識の集積・発信拠点となり,アルフレート・ヴェゲナーの大陸移動論やヴラディーミル・ケッペンの気候区分論も『ペーターマン地理学報告』が発表の舞台となった。小藤文次郎や山崎直方もペルテス社を訪れた経験をもつ。ナウマンも同誌に度々寄稿し,1893年には同誌の別冊(№108)が『日本の地質学と地理学への新しい貢献』として,一冊まるごとナウマンの論文で占められるに至った。ペルテス社の系譜を引くヘルマン・ハーク社のゴータでの出版活動は1992年で途絶え,残された膨大な図書・地図・文書類は,「ペルテス・コレクション」としてエアフルト大学ゴータ研究図書館(Forschungsbibliothek Gotha)に引き継がれた。同図書館はかつての宮廷であったフリーデンシュタイン城に入居するが,コレクションの一部は,リノベーションが完了し「ペルテス・フォーラム」として生まれ変わったペルテス社の旧社屋に保管されている(この旧社屋にはチューリンゲン州立文書館ゴータ分館も入居している)。発表者が2012年8月に初めてゴータを訪れたとき,ペルテス・コレクションの文書類は未だ整理途上で,ナウマンのアーカイブ資料があることなどは知る由もなかった。その後,2015年7月に参加した第16回国際歴史地理学会議(ロンドン)において,同図書館に当時在籍していたノーマン・ヘニゲス氏より,ナウマンのアーカイブ資料が保管されていることを聞き,また,同図書館のウェブサイトでアーカイブ資料(Nachlässe)の個人別目録が公開されたこともあり,2016年9月に同地を再訪し,件のアーカイブ資料を閲覧することができた。この個人別目録では,2017年1月現在で175名分のアーカイブ資料の概要(年次・枚数・形態・内容・請求記号)が姓名のアルファベット順に公開され,小藤文次郎(140枚)や農学者の長井新吉(22枚)の名もみられる。鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクの書簡もあり,政治と地理学の結び付きを改めて思い知らされる。ナウマンには「地質学者(Geologe),地理学者(Geograph),研究旅行家(Forschungsreisender)」という三つの肩書が付与され,59枚の日本や小アジア関連の書簡があることになっている(請求記号SPA ARCH PGM 302)。しかし,アーカイブ資料にはありがちなことだが,請求記号が付されたファイルには,目録情報とは異なる点が多く見受けられる。ファイルには69枚の資料があるかの如く“69 BL.”と記されるが,それは枚数ではなく,現物の表裏に鉛筆で記された通し番号を意味する。このファイルには“Naumann, Carl”及び“Naumann, Hermann”に関するものも収められ,前者は3枚(№1~6),後者は2枚(№67~69)である。“Naumann, Edmund”に関するものは44枚(№7~66)で,“59 Blatt”という個人別目録の表記とは一致しない。大半が書簡で,手書き地図も僅かに含まれる。1883年7月17日付で東京から出された書簡が最も古く(№7~8),最も新しいのは1898年11月3日付でフランクフルトから出された書簡である(№66)。1885年12月3月付の書簡(№11)はロンドンから出され,同年に欧州に戻ったナウマンがグリニッジ近郊のレウィシャムに滞在していたことがわかる。差出人が和田維四郎で,ナウマンに言及した書簡(№31~32,1890年3月15日付,東京)も収められている。これらのアーカイブ資料は,今後一層の精査が必要であり,広く利用されることを願うものである。