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[MZZ42-04] 日本国家気象事業の父:気象観測者ヘンリー・バトソン・ジョイナー―イングランド・日本・ブラジル―
キーワード:ヘンリー・バトソン・ジョイナー、日本の国家気象事業、気象学史、御雇外国人
ヘンリー・バトソン・ジョイナーは1839年7月9日英国・ロンドン郊外ハローで1000エーカー(約400ha)の土地を耕す小作農ヘンリー・セント・ジョン・ジョイナー(1810頃~1882)の長男として生まれた。父は熱心な篤志気象観測者でもあった。彼は"British Rainfall"を発行した気象家George James Symons(1838-1900)の求めに応じ、定期的な観測報告のほか、顕著現象の報告も行い、やはり Symons の発行した"Symons's Monthly Meteorological Magazine" (MM)に掲載された。
息子バトソンは英国で鉄道技術者や町の専属技師などとして働いた後、1870年鉄道技術者として日本に渡り、日本最初の鉄道建設に携わった。この来日に際して寄付された雨量計などの気象測器を携行し、東京で2年間の観測を行い,報告を英国に送っていた。これはMMに掲載された。
その彼が偶然、日本の国家機関としての気象観測を開始し、国家気象事業の創始に関わることになった。日本人観測者たちは彼から科学的知識を吸収し、国家気象事業構築のための堅固な基礎が築かれた。これが後の中央気象台・今日の気象庁の隆盛に結びついたと考えられる。
1877年英国に戻ったのち、間もなく1878年末にブラジルに渡り、サン・パウロで主任技師として上下水道工事に従事した。その傍ら気象観測を実施し、英国に報告して、結果は王立気象学会誌に掲載された。これはブラジルにおける近代的気象観測の先駆けとされているが、ブラジルの国家気象事業に直ちに繋がることはなかった。5年間の観測表は英国気象局文書館に保管されている。ブラジルにおける使用測器、支援者、観測場所など気象観測活動の詳細はこれから明らかにする必要がある。
1884年5月にブラジルでの仕事を終え、英国に帰国したが、害していた健康がさらに悪化し、1884年11月23日逝去した。遺体はロンドンのケンサル・グリーン墓地に埋葬された。
息子バトソンは英国で鉄道技術者や町の専属技師などとして働いた後、1870年鉄道技術者として日本に渡り、日本最初の鉄道建設に携わった。この来日に際して寄付された雨量計などの気象測器を携行し、東京で2年間の観測を行い,報告を英国に送っていた。これはMMに掲載された。
その彼が偶然、日本の国家機関としての気象観測を開始し、国家気象事業の創始に関わることになった。日本人観測者たちは彼から科学的知識を吸収し、国家気象事業構築のための堅固な基礎が築かれた。これが後の中央気象台・今日の気象庁の隆盛に結びついたと考えられる。
1877年英国に戻ったのち、間もなく1878年末にブラジルに渡り、サン・パウロで主任技師として上下水道工事に従事した。その傍ら気象観測を実施し、英国に報告して、結果は王立気象学会誌に掲載された。これはブラジルにおける近代的気象観測の先駆けとされているが、ブラジルの国家気象事業に直ちに繋がることはなかった。5年間の観測表は英国気象局文書館に保管されている。ブラジルにおける使用測器、支援者、観測場所など気象観測活動の詳細はこれから明らかにする必要がある。
1884年5月にブラジルでの仕事を終え、英国に帰国したが、害していた健康がさらに悪化し、1884年11月23日逝去した。遺体はロンドンのケンサル・グリーン墓地に埋葬された。