JpGU-AGU Joint Meeting 2017

講演情報

[JJ] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-ZZ その他

[M-ZZ42] [JJ] 地球科学の科学史・科学哲学・科学技術社会論

2017年5月21日(日) 09:00 〜 10:30 A07 (東京ベイ幕張ホール)

コンビーナ:矢島 道子(日本大学文理学部)、山田 俊弘(東京大学大学院教育学研究科研究員)、青木 滋之(会津大学コンピュータ理工学部)、吉田 茂生(九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門)、座長:山田 俊弘(東京大学大学院教育学研究科研究員)、座長:矢島 道子(日本大学文理学部)

10:00 〜 10:15

[MZZ42-05] 日本における気候変動研究の歴史(Ⅰ)

*泊 次郎1 (1.東京大学大気海洋研究所)

キーワード:気候変動、2酸化炭素、温暖化

気候変動・あるいは地球温暖化に関する研究がどのように進展したのかについて,欧米では科学史研究が盛んに行われている(例えば増田,2016).日本での気候変動あるいは気候変化についての研究の歴史を調べ始めたので,1980年頃までの概要を報告する.
 気候の変化は,陸と海の分布や山岳の高さ,太陽活動の変化など,自然的な要因によって起きると同時に,人間活動(森林破壊,都市化の進行など)によっても起きる.このような認識は遅くとも明治末期には成立していた.炭酸ガスが大きな温室効果をもたらすことや,火山噴火によってばらまかれる火山灰で地球の気温が低下することも知られていた.大正から昭和初期になると,気候の変動をローマ帝国の興亡など文明の盛衰に結びつける議論が盛んになった.ほとんどすべて西洋から輸入された知識に基づいていた.
ところが,日中戦争が始まる頃になると,気候は局地的に変化することはあっても地球規模では大きく変化しない,という考え方が気候研究者の間でも主流になったように見受けられる.そして,熱帯気候に生きる人々は怠惰になる,などとする気候決定論的な考え方が流行した(例えば,岡田,1938).
 アジア・太平洋戦争後には,気候はさまざまな要因で変化するものであるという考え方が復活した.1950年頃には観測データに示される19世紀末以降の地球気温の上昇が注目されるようになった.その原因として最も有力視されたのは太陽活動の変化であった.水爆実験による地球寒冷化を心配する研究者もいた.
1950年代半ばになると米国では,2酸化炭素の増加による温暖化に関心が向けられるようになり,南極とマウナロア山で2酸化炭素濃度の連続測定が開始された.太陽・地球輻射を専門にした東北大学の山本義一は,日本でも2酸化炭素濃度の測定を始めるよう気象庁に要請した(山本,1957)が,多くの研究者は種々の理由をあげて2酸化炭素の温暖化を疑問視した.
1967年になると,1940年以降の地球気温の下降傾向が明らかになり,その原因としてエアロゾル増加説や火山噴火説が有力とされた.ところが,1970年代末になると、地球気温の温暖化が再び指摘されるようになり,1981年には20世紀でそれまでの最高を記録した.気象庁は1984年の『異常気象レポート‘84』で,地球気温が温暖化に転じたことを認め,考えられる原因の一つとして2酸化炭素濃度の増加をあげた.気象庁が観測船を使って大気・海水中の2酸化炭素の濃度の測定を開始したのはこの年からである.
参考文献
・岡田武松,1938:「気候学」岩波書店.
・増田耕一,2016:地球温暖化に関する認識は原因から結果に向かう思考によって発達した,科学史研究,54,327-339.
・山本義一,1957:気象輻射学の最近の諸問題,気象研究ノート,8(2),11-15.