JpGU-AGU Joint Meeting 2017

講演情報

[JJ] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-ZZ その他

[M-ZZ42] [JJ] 地球科学の科学史・科学哲学・科学技術社会論

2017年5月21日(日) 10:45 〜 12:15 A07 (東京ベイ幕張ホール)

コンビーナ:矢島 道子(日本大学文理学部)、山田 俊弘(東京大学大学院教育学研究科研究員)、青木 滋之(会津大学コンピュータ理工学部)、吉田 茂生(九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門)、座長:青木 滋之(会津大学コンピュータ理工学部)、座長:吉田 茂生(九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門)

10:45 〜 11:00

[MZZ42-07] ヒトのpsychosomaticな能力と精神風土論

*東原 紘道1 (1.東京大学地震研究所)

キーワード:精神風土、創発行動、心身相関

1.研究の意義と現状
人として生きる上での難題は研究者にも容赦なく訪れる。これを切り抜ける力の根源は自分の裡にしかない。その入門は文系理系を問わず大学での必修だと考えている。しかし我が国の理系カリキュラムにはそれがない。今回の研究対象のmind climate(以下ではmcと略称し、その研究会をMCと書こう)は、地球科学者が、科学哲学を軸に哲学系の研究者を誘ってスタートした文理fusionの挑戦であるが、理系人間が人らしく生きる基盤を見出すチャンスでもありうると考えている。
準備的議論には時間をかけた。ただしこれはやむをえない。大切なことは議論を積み重ねることである。我が国の研究コミュニティにおける議論の不足の例は枚挙に暇がない。というより、議論の欠落は大小無数の団体に共通する日本の宿痾である。だからMCは、議論が成立する条件を探る実験としてだけでも意義がある。
筆者は戦後教育の中で初等教育を受けた。これは戦前日本の思想解体の切札と目されたものである。そして多くの人が、それまでの日本をほぼ全否定してかかった。このことで今までずっと考え続けさせられた。つまりmcを問い続けてきたわけである。だからMCは自分の思考を省みるよい機会となっている。人文系の参加者は今なお少ないが、それでも問題は徐々に見えてきている。例えば理系人間の多くは、自然科学の論理を振り回しがちである(後述のJ. Dewey参照)。しかしそれではmcの多くは解けない。(例えば“初発心時便成正覚”を言う仏教の因果律はどう考えればよいのだろうか?)そして論理を吟味するのに不可欠な語彙に乏しい。語彙がないということは、そのことを考えたことも関心もないということだから厳しい。
2. psychosomaticな視点
ヒトのココロを生命体の進化プロセスの結果と見る視点が重要である。実際、地球科学者は既に前世紀に『全地球史解読』で生命体進化を研究の大項目に取り込んでいた。MCでもこれまで、暗黙知(tacit dimension)やimprint現象を議論した。いずれもヒトのpsychosomaticな能力である。
工学者として長年、社会の現場を観察し、そこは達人の天下であること知った。達人の所以は、判断・行動が創発的(emergent)なことである。創発は、問題解決の方策を、自分の知識の逐次読み出しによってでなく、一気に全体像を引き出してくる。科学の定石でanalysis(問題の細分)をやって解を得ても、それを再統合するのは困難を極める。これでは現場では使えない。しかし創発なら行ける。(創発という能力はいかにも生存競争向きである。それの獲得は、意識+論理よりもはるか太古から進行しただろう。)この能力は、意識の中でなく、その根底の肉体(神経系)でなされている。創発ができるのは、肉体(the flesh)に覚えさせたからであって、論理ではできない。
身体に覚えさせる(血肉化)ためには反復が必要である。MCで出てきた“年季”論に沿えば、年季が入るのは、その人がpsychosomaticに反応(初発心)したからこそだ。それを撫で回し思索を繰り返すうちに醸成が進み血肉化する(便成正覚)。理解しただけでは正覚に到れない所以である。このことは芸能やスポーツで顕著であるが、高い知力の代表とされる法曹や医学も、大量の暗記を血肉化して初めて一人前になる。しかも一方で、この可能性は、程度の差はあれ誰にも具わっているものである。米国のJ. Deweyは、同様の考察を芸術や趣味(taste)にまで拡大し、説得的な結論を得ている。(論理の代わりに推論を考えるべきことを提言したのも彼である)。ヒトの世界享受の観点は、論理より深い世界である。ヒトの正義観念も同様であって、mc理解に欠かせないだろう。
とは言え、psychosomaticな議論だけではgenericな議論に留まる。genericだけでは万国共通になるしかなく、何も見えないだろう。mc理解にはspecificな素材が不可欠である。そこで進行中の一例を紹介しよう。まず一般論として、外国人による日本論は、日本を相対化できるのでmcに適している。また日本人でも、キリスト教やイスラム教などの外来宗教の信仰を堅固にもつならば複眼が期待できる。その例に、山本七平の貞永式目論と佐藤優の神皇正統記論がある。二人とも日本を見る眼は厳しい。対象はどちらも、鎌倉期の北条政治に関連がある。ただし原著者の出自は武家、公家と全く敵対的であり、かつ前者は北条の興隆期、後者は廃頽期と全然違っている。それなのに出した答えは“日本社会の特長は多元文化への寛容にある”と一致しているのが面白い。爛熟した公家支配の中で新鮮なエートスを身に帯びて台頭した武家は、「日本歴史上、最初の霊性」の誕生(鈴木大拙)や工商経済の急膨張、さらには外冦といった、日本史でも稀有の巨大な地殻変動の中で統治の責に任じなければならなかった。大変な危機なわけで、mcの深層が見えやすいのではないかと期待しているのである。
謝辞:本研究は中部大学のデジタルアース共同利用・共同研究としてなされた(IDEAS201608)。頂いたご支援にお礼を申し上げます。