JpGU-AGU Joint Meeting 2017

講演情報

[JJ] ポスター発表

セッション記号 S (固体地球科学) » S-VC 火山学

[S-VC51] [JJ] 1986伊豆大島噴火を読み直す、温故知新

2017年5月21日(日) 13:45 〜 15:15 ポスター会場 (国際展示場 7ホール)

コンビーナ:栗田 敬(東京大学地震研究所)、渡辺 秀文(東京都総務局総合防災部)

[SVC51-P09] 貞享元年八月九日(1684-Ⅸ-18)伊豆大島噴火に伴う津波について

*都司 嘉宣1畔柳 陽介2木南 孝博3松岡 祐也4小田桐(白石) 睦弥5佐藤 雅美6芳賀 弥生6今村 文彦6 (1.公益財団法人深田地質研究所、2.パシフィック・コンサルタンツ、3.頸城技研、4.東北大学、5.花巻市博物館、6.東北大学災害科学国際研究所)

キーワード:噴火津波、伊豆大島、歴史津波、コーシーポアッソン波

伊豆大島は、貞享元年二月十六日(1684年3月31日)から噴火が始まり、八月九日に最盛期を迎え、その後元禄三年(1690)まで6年あまり噴火が続いた。この噴火が収まった後59年が経過した寛延二年(1749)に当時の伊豆大島の現状を報告した『伊豆国大島差出帳』(東京都大島町所蔵、以下『差出帳』)が作成され、次のような文面が現れている。「大嶋之内新嶋村天和四年子八月津波ニ而廻船漁船共ニ六拾艘余人数四人家数六拾軒余波ニ被取申候」。すなわち、伊豆大島内の新島村では、天和四年(=貞享元年、1684年)八月に津波のために、廻船(輸送船)と漁船合わせて60艘あまり、人が4人、家屋が60軒あまりが波にとられた、というのである。ここに「新嶋村」とあるが、現在の伊豆大島の元町のことであって、伊豆七島の一つの新島のことではない(図1)。津波が発生したのは貞享元年八月、までしか明記されていないが、『大島山焼申候注進之覚』などに「八月九日に火炎ともに強く山鳴音夥敷」と最盛期を迎えたことが記されているため、津波もまた九日かその前後の日に起きたと考えて間違いあるまい。『差出帳』には、寛延二年(1749)当時の新島村の戸数は253軒、人口1101人であった。戸数はその後もほとんど変化せず寛政五年(1793)には245軒であったことから、津波の来襲した貞享元年(1684)当時も250軒前後の戸数であったと推定される。津波によって60軒余が「波にとられた」というのであるから、全戸数の約4分の1が流失したことになる。図2は、大正三年(1914)の5万分の1地形図である。戸数が江戸期にほとんど変化がないこと、寺院神社の配置が市街地域の外周をなしているとみられること等の理由で、この図に示された市街地の範囲はほぼ江戸期のものと変わりないものと考えられる。この大正三年図の上に市街地の4分の1を切り取る等高線を描くと、太実線のようになる。これを現代の地図の上に転写すると図3のようになる。ほぼ現在の市街地の海側から2筋の道路までの家屋が流失したことになる。そこで海から2筋目の道路の、なるべく標高の低い交差点の標高を測定すると13.9mとなった。1筋目の道路の標高は8.4mであった。この津波の浸水高さは、海岸から二筋目の道路に達したことはほぼ確実であるので、津波浸水高さは13.9mとするが、この標高の家屋が流失したことから実際の津波遡上高さは、この値をさらに2mぐらい上廻って、15m程度であった可能性がある。この事例は地震によって生じた津波ではなく火山活動による津波であるため、海洋長波ではなく短波長のコーシー・ポアッソンの波であったはずである。したがって、遠方にまでこの津波が伝わった可能性は少なく、大島元町が唯一の津波被災地であった可能性が高い。
渡辺(1998)の『日本被害津波総覧・第二版』によると、我が国で生じた火山活動による津波は、北海道駒ヶ岳(1640)、渡島大島(1741)、雲仙普賢岳(1792)、鹿児島桜島(安永年間(1772~1780)、大正年間(1912~1926))の4例が知られていたが、本研究によって伊豆大島の事例が加わったことになる。60軒余の家屋流失だけではなく、4人の溺死者を生じているから、伊豆諸島の災害対策の対象ハザードに、噴火津波の一項目が加えられるべきであろう。
謝辞:この研究は原子力規制庁からの受託業務「平成28年度原子力施設等防災対策等委託費(太平洋沿岸の歴史津波記録の調査)事業」(代表:東北大学 今村文彦)の成果の一部をとりまとめたものである。