[2005] 地域に“寄りそ医”20年~地域住民と診療所医師の強くて温かい絆の物語~
平成3年6月,初期研修を終えた卒後3年目に名田庄診療所に赴任した。外科医を目指していた私は,大病院の同期の外科医たちから遅れることを焦り,自分一人で何もかも診察しなければならないへき地診療所での仕事に不安と不満を感じていた。
ところが,私が診てきた患者の中には,足が不自由で片足を引きずりながら「リハビリだよ」と言い,診療所へ1時間以上かけて通ってくれた高齢の男性がいた。自分の処方で治らなかった難治性湿疹をよその病院の皮膚科に通い,治った後で受診して「先生,今度からこの薬を出すといいよ」と教えてくれた初老の女性もいた。
赴任して数ヶ月後,自分のような若造を医師として頼ってくれる村の人々を診ているうちに,「外科医になるには,ここにいては遅れをとってしまう」という考えに支配されていたのが,「この人たちのために医師として何ができるのか」と考えるようになり,さらには「自分がこの村を支えるんだ!」という強い思いに変わっていった。
「小さな診療所ではできないこと」はたくさんあるが,それを言い訳にせず,「小さな診療所だからこそできること」を模索していった。そうするうちに,当地域では「家で最期を迎えたい」と望む高齢者がほとんどで,家族もそれを支持していることに気づいた。
平成3年10月,地域の人々の思いに応えようと,診療所,役場住民福祉課,社会福祉協議会の全職員からなる「健康と福祉を考える会」を結成して保健・医療・福祉が連携し,住民ボランティアも巻き込んでいった。
デイサービスの開始,訪問看護を軸とする多職種の訪問調整,定期的な事例検討会,健康祭や在宅ケア講座の開催,ボランティアグループとの協力体制の確立等,次々と事業を展開するうちに,職員とボランティアがいっしょに活動する「場」を求める気運が高まっていった。
平成8年,保健医療福祉総合施設の建設目的で「福祉の森検討委員会」を立ち上げ,村長の後押しで基本構想,基本設計の段階から職員も住民も計画に参加した。
平成11年,国保診療所と国保総合保健施設が一体化した「あっとほ~むいきいき館」が完成した。同時に医師2名体制とし,私は診療所長と保健福祉課長を兼任することで,保健・医療・福祉が統合できた。
平成12年度からの介護保険制度の開始前後には,課長として住民対象の説明会を何度も開き,議会対応も前面に立ったため,スムーズに導入できた。また,この年度から,母校である自治医科大学の地域医療実習(1年生,5年生)を受け入れるようになった。
やがて,私たちの活動が数値として現れた。私が赴任してから町村合併するまでの15年間(平成3~17年度)における名田庄村の在宅死亡率は約42%であった。さらには,名田庄村の国保医療費地域差指数や老人医療費,第1号介護保険料を県内で最も低いランクに抑えることができた。
平成15年度からの3年間,特定保健指導の元となった厚労省の国保ヘルスアップモデル事業に取り組んだ。様々な健康づくりの中で,携帯電話を用いた「IT介入」は国からも注目され,平成19年度版の厚生労働白書に掲載された。また,当地域の高齢者には,近所同士が助け合い,田畑で働き自給自足をよしとする伝統的な「生活習慣力」があることがわかった。
平成17年度から,新医師臨床研修制度による地域医療研修の初期研修医を受け入れた。初年度は3名だったが,徐々に増え,平成23年度には17名が集まり,以降は年間を通じて研修医が来ている。なお,平成22年度からは,福井県家庭医養成コースから,年間のうち6ヶ月は後期研修が派遣されるようになった。
平成25年度においては,長年の医学生教育,研修医教育のためか,患者の主な紹介先である杉田玄白記念公立小浜病院には,名田庄診療所研修あるいは勤務経験のある医師が7名(内科6名,外科1名)勤務している。後方病院に地域医療の実情を理解する医師がいてくれることは,私やスタッフというより地域住民にとって心強い限りである。
ただし,よいことばかりではなかった。以下,2つのエピソードを示す。
平成5年,クモ膜下出血を見逃してしまった。この病気の主症状は激しい頭痛だが,患者は肩の痛みを訴えていたので非典型的だった。しかし,結果的に診断できなかった。「最悪の場合,この土地を去ろう」と思いつめていた。幸い後遺症もなく回復したが,救急搬送直後に患者の親戚から「一所懸命やっていてもうまくいかないことは,だれにでもある。お互い様や」と言われたことは一生忘れられない。
平成15年,私は「特発性頭蓋内圧低下症による慢性硬膜下血腫」を患い,約2ヶ月,仕事を休んだ。それを知った住民は,だれが言い出したわけでもなくコンビニ受診(軽症にもかかわらず,本来重症者を対象とする救急外来を夜間や休日に受診する行為)を控えた。平成14年度に1098件あった時間外・休日診療は,平成15年度以降は120件前後に激減した。住民の自主的な行動で,「共有地の悲劇」を自然に回避したことになる。
若い頃は,自分が地域を支えているつもりだった。誤診を許され,コンビニ受診も控えてもらった私は,地域に育てられ地域から支えられてきたといえる。
ここ4~5年,「医療崩壊」という言葉をマスコミで頻繁に見る。その根底には,患者側と医療者側の相互不信があるのではないだろうか。相互不信という大きな溝のあちらとこちらで,互いが勝手な言い分を言い合っていては,その溝は埋まらない。患者も医療者も「お互い様」の相互信頼のもとに,医療という限られた公共財を守り,支えあうことが大切ではないだろうか。
ところが,私が診てきた患者の中には,足が不自由で片足を引きずりながら「リハビリだよ」と言い,診療所へ1時間以上かけて通ってくれた高齢の男性がいた。自分の処方で治らなかった難治性湿疹をよその病院の皮膚科に通い,治った後で受診して「先生,今度からこの薬を出すといいよ」と教えてくれた初老の女性もいた。
赴任して数ヶ月後,自分のような若造を医師として頼ってくれる村の人々を診ているうちに,「外科医になるには,ここにいては遅れをとってしまう」という考えに支配されていたのが,「この人たちのために医師として何ができるのか」と考えるようになり,さらには「自分がこの村を支えるんだ!」という強い思いに変わっていった。
「小さな診療所ではできないこと」はたくさんあるが,それを言い訳にせず,「小さな診療所だからこそできること」を模索していった。そうするうちに,当地域では「家で最期を迎えたい」と望む高齢者がほとんどで,家族もそれを支持していることに気づいた。
平成3年10月,地域の人々の思いに応えようと,診療所,役場住民福祉課,社会福祉協議会の全職員からなる「健康と福祉を考える会」を結成して保健・医療・福祉が連携し,住民ボランティアも巻き込んでいった。
デイサービスの開始,訪問看護を軸とする多職種の訪問調整,定期的な事例検討会,健康祭や在宅ケア講座の開催,ボランティアグループとの協力体制の確立等,次々と事業を展開するうちに,職員とボランティアがいっしょに活動する「場」を求める気運が高まっていった。
平成8年,保健医療福祉総合施設の建設目的で「福祉の森検討委員会」を立ち上げ,村長の後押しで基本構想,基本設計の段階から職員も住民も計画に参加した。
平成11年,国保診療所と国保総合保健施設が一体化した「あっとほ~むいきいき館」が完成した。同時に医師2名体制とし,私は診療所長と保健福祉課長を兼任することで,保健・医療・福祉が統合できた。
平成12年度からの介護保険制度の開始前後には,課長として住民対象の説明会を何度も開き,議会対応も前面に立ったため,スムーズに導入できた。また,この年度から,母校である自治医科大学の地域医療実習(1年生,5年生)を受け入れるようになった。
やがて,私たちの活動が数値として現れた。私が赴任してから町村合併するまでの15年間(平成3~17年度)における名田庄村の在宅死亡率は約42%であった。さらには,名田庄村の国保医療費地域差指数や老人医療費,第1号介護保険料を県内で最も低いランクに抑えることができた。
平成15年度からの3年間,特定保健指導の元となった厚労省の国保ヘルスアップモデル事業に取り組んだ。様々な健康づくりの中で,携帯電話を用いた「IT介入」は国からも注目され,平成19年度版の厚生労働白書に掲載された。また,当地域の高齢者には,近所同士が助け合い,田畑で働き自給自足をよしとする伝統的な「生活習慣力」があることがわかった。
平成17年度から,新医師臨床研修制度による地域医療研修の初期研修医を受け入れた。初年度は3名だったが,徐々に増え,平成23年度には17名が集まり,以降は年間を通じて研修医が来ている。なお,平成22年度からは,福井県家庭医養成コースから,年間のうち6ヶ月は後期研修が派遣されるようになった。
平成25年度においては,長年の医学生教育,研修医教育のためか,患者の主な紹介先である杉田玄白記念公立小浜病院には,名田庄診療所研修あるいは勤務経験のある医師が7名(内科6名,外科1名)勤務している。後方病院に地域医療の実情を理解する医師がいてくれることは,私やスタッフというより地域住民にとって心強い限りである。
ただし,よいことばかりではなかった。以下,2つのエピソードを示す。
平成5年,クモ膜下出血を見逃してしまった。この病気の主症状は激しい頭痛だが,患者は肩の痛みを訴えていたので非典型的だった。しかし,結果的に診断できなかった。「最悪の場合,この土地を去ろう」と思いつめていた。幸い後遺症もなく回復したが,救急搬送直後に患者の親戚から「一所懸命やっていてもうまくいかないことは,だれにでもある。お互い様や」と言われたことは一生忘れられない。
平成15年,私は「特発性頭蓋内圧低下症による慢性硬膜下血腫」を患い,約2ヶ月,仕事を休んだ。それを知った住民は,だれが言い出したわけでもなくコンビニ受診(軽症にもかかわらず,本来重症者を対象とする救急外来を夜間や休日に受診する行為)を控えた。平成14年度に1098件あった時間外・休日診療は,平成15年度以降は120件前後に激減した。住民の自主的な行動で,「共有地の悲劇」を自然に回避したことになる。
若い頃は,自分が地域を支えているつもりだった。誤診を許され,コンビニ受診も控えてもらった私は,地域に育てられ地域から支えられてきたといえる。
ここ4~5年,「医療崩壊」という言葉をマスコミで頻繁に見る。その根底には,患者側と医療者側の相互不信があるのではないだろうか。相互不信という大きな溝のあちらとこちらで,互いが勝手な言い分を言い合っていては,その溝は埋まらない。患者も医療者も「お互い様」の相互信頼のもとに,医療という限られた公共財を守り,支えあうことが大切ではないだろうか。