[2023] 介護予防的視点から生活を支える
日本では急速な超高齢社会に向けた医療の変革が行われている。端的に言うと若い人は,病気を治療すれば良いが,高齢者では病気は治癒しても生活機能の障害を残すという事が起こる。ちょっとした入院でも,食べられなくなったり,認知機能の低下が著しくなったりという事はよく経験される。高齢者では「未病」と言うが,病気になる前の状態がその後の生活に大きく影響を及ぼす。前述の医療の改革ではケア,すなわち病気が起こってからの対処が積極的に議論されているが,同時に「未病」への対策も,同程度の費用を投入して行われるべきものである。
この病気になる前の状態をできるだけ良い状態に保つ一つの手段が介護予防である。要介護に至る原因に着目し,運動器,栄養,口腔,社会参加への啓発を行う。一般向けに表現すれば,介護予防とは良く食べ,良く動き,良く笑うことである。まったく当たり前のことであるが,年をとるとこれが難しくなってくる。歩くのが好きな人でも膝が痛くなったらどうか。食べ歩きが趣味だった人でも歯の調子が悪くなったらどうか。家族に囲まれて笑って暮らしていた人でも家族が独立していってしまったらどうか。高齢期では頭で理解していても,なかなか思うようにいかない要因が重なってくる。こうした,阻害因子を一つ一つ消していくことが理学療法士の行う介護予防であり,未病への生活を支えていくことになる。
考えてみると学校やこれまでの社会では,思うようにいかなくなったときにどのように対処をしていくのかは教えていない。良くて健康増進である。その字が示す如く健康を増やすことを目的としている。しかし,高齢期とはある意味退行期なので,落ちていく心身機能・生理機能の中でもどのようにして良く食べ,良く動き,良く笑うことを維持していくのかに応える教育が欠けている。一方,結晶性知能など加齢に伴い向上していく能力もある。さらには個人差も大きくなる。すなわち高齢となる一人一人が自身の退行期の体や心の変化を知る必要があると言える。変化を知るには負荷が必要である。体力の衰えを感じるのは,電車に間に合わないなどで少し走ったときや,子供たちの運動会の親子競技に参加して足がついていかなくなって転んでしまったといったように,普段の活動よりやや強い強度の活動,すなわち負荷がかかった時である。つまり,黙っていて変化を知るのは難しく,普段と違う状況に追い込んだときに自分の持っている力が分かる。一方,こうした活動は危険も伴う。理学療法士が生理学的,運動学的,医学的な視点から助言を行い,危険を最小限にしたうえで自分の心身の状況を試してみる機会を持つ事は,今後の社会にとって重要である。認知機能についても同様で,負荷を加えることによって能力が分かる。認知機能は複雑で1つの測定で全てを推し量るものでは無いが,それでも例えばストループテストなどを実施する事によって,加齢の認知機能への影響を知ることができる。このような事から,介護予防では過負荷を大事にする。過負荷とはトレーニング理論の中核にあるものだが,日常生活で必要とする負荷よりやや強い負荷を体に与えることで,心身が適応しより強い心身へと変化することである。ただし,これは怪我をするほど負荷を高くするという意味ではなく,心身の変化のためには適度な刺激が必要ということである。これによって,それぞれの体の得手不得手が明確になり,退行期の心身のコントロール方法が身につく。
ところで,人は何故,心身を高い状態に保たなければならないのかという疑問も生じる。国では二次予防事業を行っているが,参加者の低迷が課題としてあげられている。つまり,国がいくら介護予防が必要と勧奨しても人々の心は動かないという事を示す。もちろん,二次予防事業の実施方法の問題もあると考えられるが,さりとて理学療法士として運動を進めたときに,対象者がいやだといったときの言葉を持ち合わせていない。愚行権というものも大切な人権であって人に迷惑を掛けない限り,不摂生な生活をしようが何をしようが権利は保障されているのである。私は,これを社会保障費の高騰に求めない。社会的には,不活発な生活を送る人が多くなると,医療費,介護費用が増加するので介護予防が必要と説明するのであろうが,これでは人々の心に響かない。介護予防でもう一つ応えていかなければいけないのは,何故人は健康を保たなければいけないのかと言うことそのものなのである。壮年期には種の保存の命題がある。前期高齢期も子供たちの成長を見届けるという命題がある。しかし,後期高齢期には健康を保ち続けることへの社会共通の必要性が欠けていることを指摘する。別な表現をすれば,平均寿命が男女ともに70歳を超えたのは1971年である。たかだか40年で新たな生活に価値をもたらすことができるのだろうか。
一方で,ものも時間も超えた超然とした高齢者にあこがれを感じる。臨床では,寝たきりであっても存在が家族や会社,社会をまとめているという人格者も目にする。高齢期で健康を保たず自分の殻に閉じこもると,自我がどんどんと縮小していく。一方こうした超然とした高齢者は退行してくる心身機能の中でも人への配慮を忘れず,むしろ大きくしている。やはり高齢期であっても人と関わり成長していく,そのために介護予防が必要なのである。高齢期に誰かのために元気でいるという感覚がなければ,一日中寝て暮らすことを防ぐ事はできない。
介護予防は,高齢期の心身機能をよく知り,退行期にあっても自律できる様に支援する事,また,こうした自律が家族や地域に役立つことであり文化を創り出すことである。これが高齢期,特に後期高齢期のいきいきとした生活の支援である。
この病気になる前の状態をできるだけ良い状態に保つ一つの手段が介護予防である。要介護に至る原因に着目し,運動器,栄養,口腔,社会参加への啓発を行う。一般向けに表現すれば,介護予防とは良く食べ,良く動き,良く笑うことである。まったく当たり前のことであるが,年をとるとこれが難しくなってくる。歩くのが好きな人でも膝が痛くなったらどうか。食べ歩きが趣味だった人でも歯の調子が悪くなったらどうか。家族に囲まれて笑って暮らしていた人でも家族が独立していってしまったらどうか。高齢期では頭で理解していても,なかなか思うようにいかない要因が重なってくる。こうした,阻害因子を一つ一つ消していくことが理学療法士の行う介護予防であり,未病への生活を支えていくことになる。
考えてみると学校やこれまでの社会では,思うようにいかなくなったときにどのように対処をしていくのかは教えていない。良くて健康増進である。その字が示す如く健康を増やすことを目的としている。しかし,高齢期とはある意味退行期なので,落ちていく心身機能・生理機能の中でもどのようにして良く食べ,良く動き,良く笑うことを維持していくのかに応える教育が欠けている。一方,結晶性知能など加齢に伴い向上していく能力もある。さらには個人差も大きくなる。すなわち高齢となる一人一人が自身の退行期の体や心の変化を知る必要があると言える。変化を知るには負荷が必要である。体力の衰えを感じるのは,電車に間に合わないなどで少し走ったときや,子供たちの運動会の親子競技に参加して足がついていかなくなって転んでしまったといったように,普段の活動よりやや強い強度の活動,すなわち負荷がかかった時である。つまり,黙っていて変化を知るのは難しく,普段と違う状況に追い込んだときに自分の持っている力が分かる。一方,こうした活動は危険も伴う。理学療法士が生理学的,運動学的,医学的な視点から助言を行い,危険を最小限にしたうえで自分の心身の状況を試してみる機会を持つ事は,今後の社会にとって重要である。認知機能についても同様で,負荷を加えることによって能力が分かる。認知機能は複雑で1つの測定で全てを推し量るものでは無いが,それでも例えばストループテストなどを実施する事によって,加齢の認知機能への影響を知ることができる。このような事から,介護予防では過負荷を大事にする。過負荷とはトレーニング理論の中核にあるものだが,日常生活で必要とする負荷よりやや強い負荷を体に与えることで,心身が適応しより強い心身へと変化することである。ただし,これは怪我をするほど負荷を高くするという意味ではなく,心身の変化のためには適度な刺激が必要ということである。これによって,それぞれの体の得手不得手が明確になり,退行期の心身のコントロール方法が身につく。
ところで,人は何故,心身を高い状態に保たなければならないのかという疑問も生じる。国では二次予防事業を行っているが,参加者の低迷が課題としてあげられている。つまり,国がいくら介護予防が必要と勧奨しても人々の心は動かないという事を示す。もちろん,二次予防事業の実施方法の問題もあると考えられるが,さりとて理学療法士として運動を進めたときに,対象者がいやだといったときの言葉を持ち合わせていない。愚行権というものも大切な人権であって人に迷惑を掛けない限り,不摂生な生活をしようが何をしようが権利は保障されているのである。私は,これを社会保障費の高騰に求めない。社会的には,不活発な生活を送る人が多くなると,医療費,介護費用が増加するので介護予防が必要と説明するのであろうが,これでは人々の心に響かない。介護予防でもう一つ応えていかなければいけないのは,何故人は健康を保たなければいけないのかと言うことそのものなのである。壮年期には種の保存の命題がある。前期高齢期も子供たちの成長を見届けるという命題がある。しかし,後期高齢期には健康を保ち続けることへの社会共通の必要性が欠けていることを指摘する。別な表現をすれば,平均寿命が男女ともに70歳を超えたのは1971年である。たかだか40年で新たな生活に価値をもたらすことができるのだろうか。
一方で,ものも時間も超えた超然とした高齢者にあこがれを感じる。臨床では,寝たきりであっても存在が家族や会社,社会をまとめているという人格者も目にする。高齢期で健康を保たず自分の殻に閉じこもると,自我がどんどんと縮小していく。一方こうした超然とした高齢者は退行してくる心身機能の中でも人への配慮を忘れず,むしろ大きくしている。やはり高齢期であっても人と関わり成長していく,そのために介護予防が必要なのである。高齢期に誰かのために元気でいるという感覚がなければ,一日中寝て暮らすことを防ぐ事はできない。
介護予防は,高齢期の心身機能をよく知り,退行期にあっても自律できる様に支援する事,また,こうした自律が家族や地域に役立つことであり文化を創り出すことである。これが高齢期,特に後期高齢期のいきいきとした生活の支援である。