[教育講演1] 江戸・明治期の医療機器について
漢方系の内科治療をおこなう江戸期の本道医が必要とした医療器具の数は少なかったが,戦国時代に傷の治療で経験を積んだ金瘡医(外科医)が用いた器具もそれほど多くはなかった.1609年に発表された南蛮外科書『万外集要』に記載された医療器具は針,鋏,篦,鎌,匙,小刀など11種にとどまっている.キリシタン弾圧が厳しさを増した17世紀初頭には南蛮人医師による影響は小さかった.関連の史料で確認できる器具も焼金とランセッタのみである.
日本とヨーロッパの間の継続的な医学交流が始まった1650年代から,老中,大目付,長崎奉行や藩主たちが出島商館医の医術に強い関心を寄せ,侍医たちに紅毛人の外科術を学ばせた.1652年に出島商館に届いた幕府からの注文書には「外科用包帯箱および附属の刃物と道具」の記載が見られる.それ以降は各種医薬品や医書とともに西洋の医療器具も毎年のように長崎の港に届けられた.パレ,シュルテス,ハイステルの医療機器図は大いに注目され,いわゆる紅毛流医書を通じて19世紀まで流布していた.時折,開頭具,三脚型骨片挙上器,四肢切断用の台槌,ノミ,鋸などの珍しい道具も輸入されたが,これらが医療現場で使用された形跡は確認されていない.
18世紀後半から,洋書を読める医師が増え,輸入医療機器が広く利用されるようになり,その一部は次々に国産化されるようになった.製品にアルファベットで印や名を入れたり,保証書を添付するなどして「ブランド」を確立しようとする試みからは外科道具の市場における競争がうかがえる.日本独自の製品の開発も見過ごせない.鍼灸師・杉山検校の管鍼や,京都御所の典薬寮御医・伊良子道牛が考案した骨折整復用の「竹籬」,また水原三折ら19世紀の産科医が利用した探頷器,纒頭絹,包頭器,奪珠車などは,来日した西洋人の興味も引いた.
天保年間から盛んに出回るようになった引き札には雙龍軒清水光邦,真竜軒安則,奈加本久則,一樹園正則,いわしや藤右衛門,いわしや藤吉など,道具師および販売業者の名が確認できる.引き札に見られる外科道具の総数は100点を超える場合もあるが,これは同じ道具に寸法や材質の異なるものがあるためで,基本的な道具の種類は10〜20種に過ぎなかった.
1870(明治3)年に新政府がドイツ医学の導入を決議すると,漢方医学から西洋医学への転換が急速に進み,ドイツ製品を中心に大量の新しい医療器械が医療の現場に次々に導入された.初期の医科器械商のほとんどは,薬種商,硝子瓶商,鍼術用針製造業などから転業した者である.
医療器械の国産化が始まると,元は刀剣師,鉄砲鍛冶,甲冑鍛冶,銅工,木工,馬具師などの職人だった人々が次第に市場で通用する製品を開発していった.1878年頃から『医用器械図譜』,『医科器械実価表』などの書名で普及したカタログは,多くの医師にとって未知の器械や,その日本語の名称を紹介してくれる格好の「参考書」であり,医療の近代化における製造販売業者の歴史的貢献の象徴でもあった.
医科器械の開発・改良には大学,病院,開業医らの密接な協力が不可欠だった.全国各地を巡回する業者は,次第に乗合馬車,車,やがて鉄道も利用するようになった.1877(明治10)年から5回にわたり開催された内国勧業博覧会は製品の比較・開発をさらに促進した.
明治20年代,日本政府はウラジオストック,アモイ,シンガポールなどの領事館内に商品陳列場を設置し国産品の輸出を奨励する.医療機器製造業も次第に朝鮮,清国,台湾,満州の市場へ進出し,輸出産業としての基盤を固めた.
医科器械製造販売業の成長には明治期に誕生した陸軍と海軍も大きな役割を果たした.日清戦争,日露戦争により,とりわけ野戦用の器械の受容と開発が促進された.第一次大戦で敵国となったドイツからの供給が打ち切られたため,顕微鏡などの高度な技術を必要とする製品の国産化が急務となった.1924年に全国各地の大学と病院を視察した著名な病理学者ルートヴィヒ・アショフ教授は帰国後の講演の冒頭で,日本の研究教育機関はヨーロッパと同等のレベルに達しており,「我々のMission(啓蒙活動,教授)」をもはや必要としていないと賞賛した.
日本とヨーロッパの間の継続的な医学交流が始まった1650年代から,老中,大目付,長崎奉行や藩主たちが出島商館医の医術に強い関心を寄せ,侍医たちに紅毛人の外科術を学ばせた.1652年に出島商館に届いた幕府からの注文書には「外科用包帯箱および附属の刃物と道具」の記載が見られる.それ以降は各種医薬品や医書とともに西洋の医療器具も毎年のように長崎の港に届けられた.パレ,シュルテス,ハイステルの医療機器図は大いに注目され,いわゆる紅毛流医書を通じて19世紀まで流布していた.時折,開頭具,三脚型骨片挙上器,四肢切断用の台槌,ノミ,鋸などの珍しい道具も輸入されたが,これらが医療現場で使用された形跡は確認されていない.
18世紀後半から,洋書を読める医師が増え,輸入医療機器が広く利用されるようになり,その一部は次々に国産化されるようになった.製品にアルファベットで印や名を入れたり,保証書を添付するなどして「ブランド」を確立しようとする試みからは外科道具の市場における競争がうかがえる.日本独自の製品の開発も見過ごせない.鍼灸師・杉山検校の管鍼や,京都御所の典薬寮御医・伊良子道牛が考案した骨折整復用の「竹籬」,また水原三折ら19世紀の産科医が利用した探頷器,纒頭絹,包頭器,奪珠車などは,来日した西洋人の興味も引いた.
天保年間から盛んに出回るようになった引き札には雙龍軒清水光邦,真竜軒安則,奈加本久則,一樹園正則,いわしや藤右衛門,いわしや藤吉など,道具師および販売業者の名が確認できる.引き札に見られる外科道具の総数は100点を超える場合もあるが,これは同じ道具に寸法や材質の異なるものがあるためで,基本的な道具の種類は10〜20種に過ぎなかった.
1870(明治3)年に新政府がドイツ医学の導入を決議すると,漢方医学から西洋医学への転換が急速に進み,ドイツ製品を中心に大量の新しい医療器械が医療の現場に次々に導入された.初期の医科器械商のほとんどは,薬種商,硝子瓶商,鍼術用針製造業などから転業した者である.
医療器械の国産化が始まると,元は刀剣師,鉄砲鍛冶,甲冑鍛冶,銅工,木工,馬具師などの職人だった人々が次第に市場で通用する製品を開発していった.1878年頃から『医用器械図譜』,『医科器械実価表』などの書名で普及したカタログは,多くの医師にとって未知の器械や,その日本語の名称を紹介してくれる格好の「参考書」であり,医療の近代化における製造販売業者の歴史的貢献の象徴でもあった.
医科器械の開発・改良には大学,病院,開業医らの密接な協力が不可欠だった.全国各地を巡回する業者は,次第に乗合馬車,車,やがて鉄道も利用するようになった.1877(明治10)年から5回にわたり開催された内国勧業博覧会は製品の比較・開発をさらに促進した.
明治20年代,日本政府はウラジオストック,アモイ,シンガポールなどの領事館内に商品陳列場を設置し国産品の輸出を奨励する.医療機器製造業も次第に朝鮮,清国,台湾,満州の市場へ進出し,輸出産業としての基盤を固めた.
医科器械製造販売業の成長には明治期に誕生した陸軍と海軍も大きな役割を果たした.日清戦争,日露戦争により,とりわけ野戦用の器械の受容と開発が促進された.第一次大戦で敵国となったドイツからの供給が打ち切られたため,顕微鏡などの高度な技術を必要とする製品の国産化が急務となった.1924年に全国各地の大学と病院を視察した著名な病理学者ルートヴィヒ・アショフ教授は帰国後の講演の冒頭で,日本の研究教育機関はヨーロッパと同等のレベルに達しており,「我々のMission(啓蒙活動,教授)」をもはや必要としていないと賞賛した.