16:10 〜 17:20
[SL-02] 共に創り合う経験 - “I and You”から“We”へ -
臨床はいつでも不思議に満ちています.様々な現象をめぐり,何通りもの事実があるように見えるからです.「身体が無い」という患者さんと確かにそこに見えているセラピスト,「何も変わったこともないし困ってもいない」と語る患者さんと片麻痺や注意障害を見ているセラピスト,「手がグローブみたいに腫れてるでしょ?」と訴える患者さんと左右で変わらないサイズの手を見ているセラピスト,「ここに鉄の棒が刺さってるんだ」と語る患者さんと何も刺さっていない身体を見るセラピスト.…どちらの見え方も事実と言えるのでしょうか?
医療では,常にセラピストの側から観える客観的事実を特定の言葉に置き換えることで評価を進めていきます.運動麻痺,感覚麻痺,痙性,身体無視,空間無視,運動失行,失調,失語,注意障害…,それは患者さんの周りで語られ,患者さんの状態を表現するための言葉です.しかしその身体で生きている患者さん自身が経験していることは,そんな風に周りで吹く風とは無関係に,彼らにとっての現実として存在しているのです.‘手が腫れている’患者さんは本当に腫れていると感じているのです.それを主観として「気のせい」という言葉で括り,あたかも客観の方だけが事実であるとされる,そんな風潮があるのではないでしょうか?
しかしメルロポンティが主張するように,主観は,自身の身体と世界とのかかわりによって生まれる『否定しがたい経験』であり,『客観的世界の手前で生きられている世界』なのです.経験していることはその人にとっては絶対なのです.そしてそれは客観的に語られる世界とは完全に一致することはなく,したがって客観的な世界は経験不可能であるとも論じています.そうであるならば,私たちの臨床も患者さんが生きている世界を中心に組み立てられなければなりません.客観というデータはそれとして必要ですが同時に,患者さんの主観を中心に,患者さんが生きている世界を,そして経験を考え,そこから始めなければなりません.
しかし,観えないし聴こえないし触れない患者さんの世界に,他者であるセラピストはどう接近すればいいのでしょうか?
昨年の学会で確認したWe mode cognitionは,その問題へのひとつの足掛かりを示してくれたと思います.メルロポンティは『感覚する者と感覚されるもの』は『対』になると論じており,昨年の学会でも,この『対』と言うワードがキーのひとつになっていたと思います.『対』では主体と客体に相互反転性が存在しており両者の境界は曖昧となり,主体と客体は自由に入れ替わるのです.認知神経リハビリテーションでは,その手技的な事情から,感覚する者としての患者の身体の動きに,セラピストが直接介入することができます.患者さんとセラピストの身体の動きが混ざり合って主体となり,共に客体としての世界に意味を与えることになります.つまりWe modeとして『感覚するもの』に共に向かうことが構造的に可能となります.そして同様に『感覚されるもの』として客体にもなるのです.
さらに,患者さんとセラピストも対になり得ると考えています.セラピストは,主体として患者さんの身体を動かしながらも患者さんからの誘導に応じて動かしていく,つまり動かされるという意味で客体にもなる,そして患者さんもまた,セラピストに誘導されて動かされる客体でありながらも,同時にセラピストを導き自ら動かしていく主体ともなる,そんな『一対』という形です.
本講演では,認知神経リハビリテーションが,これまで進めてきた認知の内実と構造的な特徴について再確認し,行為間比較に至る道筋としてより深化させたWe modeについて考察していきたいと思います.『対になる まなざし・身体・言葉』これらを改めて考えます.そして患者さんが自ずとその主観を変えてしまう経験のきっかけになるような体験を,実際の臨床場面でどのようにして計画していくのか,それを考えていきたいと思います.
かつて担当した患者さんは,ご自身の経験についてこう語られました.
「 このリハビリはrecoveryじゃなくてcreateだよね 」
新しい世界を啓く経験と創り続けていく世界の意味,まさにそれを実感されたのではないかと思います.
Weは,私たちセラピストもまた,自身のありようを創り続けていく,という意味です.
このことを教えて下さったペルフェッティ先生に感謝し,自分の臨床を見つめなおす意味も含めて,できるだけ具体的にお話ししようと思います.
医療では,常にセラピストの側から観える客観的事実を特定の言葉に置き換えることで評価を進めていきます.運動麻痺,感覚麻痺,痙性,身体無視,空間無視,運動失行,失調,失語,注意障害…,それは患者さんの周りで語られ,患者さんの状態を表現するための言葉です.しかしその身体で生きている患者さん自身が経験していることは,そんな風に周りで吹く風とは無関係に,彼らにとっての現実として存在しているのです.‘手が腫れている’患者さんは本当に腫れていると感じているのです.それを主観として「気のせい」という言葉で括り,あたかも客観の方だけが事実であるとされる,そんな風潮があるのではないでしょうか?
しかしメルロポンティが主張するように,主観は,自身の身体と世界とのかかわりによって生まれる『否定しがたい経験』であり,『客観的世界の手前で生きられている世界』なのです.経験していることはその人にとっては絶対なのです.そしてそれは客観的に語られる世界とは完全に一致することはなく,したがって客観的な世界は経験不可能であるとも論じています.そうであるならば,私たちの臨床も患者さんが生きている世界を中心に組み立てられなければなりません.客観というデータはそれとして必要ですが同時に,患者さんの主観を中心に,患者さんが生きている世界を,そして経験を考え,そこから始めなければなりません.
しかし,観えないし聴こえないし触れない患者さんの世界に,他者であるセラピストはどう接近すればいいのでしょうか?
昨年の学会で確認したWe mode cognitionは,その問題へのひとつの足掛かりを示してくれたと思います.メルロポンティは『感覚する者と感覚されるもの』は『対』になると論じており,昨年の学会でも,この『対』と言うワードがキーのひとつになっていたと思います.『対』では主体と客体に相互反転性が存在しており両者の境界は曖昧となり,主体と客体は自由に入れ替わるのです.認知神経リハビリテーションでは,その手技的な事情から,感覚する者としての患者の身体の動きに,セラピストが直接介入することができます.患者さんとセラピストの身体の動きが混ざり合って主体となり,共に客体としての世界に意味を与えることになります.つまりWe modeとして『感覚するもの』に共に向かうことが構造的に可能となります.そして同様に『感覚されるもの』として客体にもなるのです.
さらに,患者さんとセラピストも対になり得ると考えています.セラピストは,主体として患者さんの身体を動かしながらも患者さんからの誘導に応じて動かしていく,つまり動かされるという意味で客体にもなる,そして患者さんもまた,セラピストに誘導されて動かされる客体でありながらも,同時にセラピストを導き自ら動かしていく主体ともなる,そんな『一対』という形です.
本講演では,認知神経リハビリテーションが,これまで進めてきた認知の内実と構造的な特徴について再確認し,行為間比較に至る道筋としてより深化させたWe modeについて考察していきたいと思います.『対になる まなざし・身体・言葉』これらを改めて考えます.そして患者さんが自ずとその主観を変えてしまう経験のきっかけになるような体験を,実際の臨床場面でどのようにして計画していくのか,それを考えていきたいと思います.
かつて担当した患者さんは,ご自身の経験についてこう語られました.
「 このリハビリはrecoveryじゃなくてcreateだよね 」
新しい世界を啓く経験と創り続けていく世界の意味,まさにそれを実感されたのではないかと思います.
Weは,私たちセラピストもまた,自身のありようを創り続けていく,という意味です.
このことを教えて下さったペルフェッティ先生に感謝し,自分の臨床を見つめなおす意味も含めて,できるだけ具体的にお話ししようと思います.