10:00 AM - 10:20 AM
[III-LL3-01] Reminiscence of the dawning of pediatric cardiology in Japan and the way for the further development of young pediatric cardiologists
昭和36年(1961年)横浜市大医学部卒業、昭和37年横浜市大小児科入局。新人の頃は極めて医療設備に乏しい時代。昭和40年~42年の間、東京女子医大心研小児科に国内留学。
高尾先生という偉大な先生と猛烈に働く優秀な先輩医師に出会い、自身も猛勉強した。
心研には既に最新の診断器具、呼吸管理用具が充実していた。さらに横浜では未知のCHD病名の数々。未熟な自分には、驚愕と戸惑いの連続であった。しかし、1年後には心研の生活に馴染み、意見もいえるようになった。
横浜に戻り、小児循環器グループを立ち上げ、昭和45年(1970)創立の神奈川こどもセンターの循環器に勤務したが、センターの生活は2年で終わり、再び市大小児科に戻った。
次いで、一人でも診断治療が可能な不整脈に興味をもち、臨床電気生理を勉強した。
学会との関係は、昭和41年( 1966年)第2回小児循環器研究会の発表以降、一会員として51年間の長き付き合いとなる。
当学会への要望
①開催期間は2日間、②各分科会主催による若い先生方対象の「必須な専門知識の講習会」を連日開催、③当学会主導下にこども病院の中堅医師の交換制度を作成、などなど。
若手医師への要望
①若手医師は診断、治療方針などに難渋した場合には、自ら勉強し、得た結論を先輩医師に訴え、その応答をさらに検討。②学会発表は関連文献を熟読し、原稿用紙なしで、淀みなく発表。③体験症例に関する独自のsummaryを作成。④学会では自分と共通分野を研究する医師との出会いを大切に。
最後に、田崎先生主宰の九州小児不整脈研究会の先生、互いに助け合い共通の道を歩んでくださった盟友長嶋先生、好き放題を許してくれた横浜市大の先生方に感謝します。
以上、老医の戯言を述べた。
高尾先生という偉大な先生と猛烈に働く優秀な先輩医師に出会い、自身も猛勉強した。
心研には既に最新の診断器具、呼吸管理用具が充実していた。さらに横浜では未知のCHD病名の数々。未熟な自分には、驚愕と戸惑いの連続であった。しかし、1年後には心研の生活に馴染み、意見もいえるようになった。
横浜に戻り、小児循環器グループを立ち上げ、昭和45年(1970)創立の神奈川こどもセンターの循環器に勤務したが、センターの生活は2年で終わり、再び市大小児科に戻った。
次いで、一人でも診断治療が可能な不整脈に興味をもち、臨床電気生理を勉強した。
学会との関係は、昭和41年( 1966年)第2回小児循環器研究会の発表以降、一会員として51年間の長き付き合いとなる。
当学会への要望
①開催期間は2日間、②各分科会主催による若い先生方対象の「必須な専門知識の講習会」を連日開催、③当学会主導下にこども病院の中堅医師の交換制度を作成、などなど。
若手医師への要望
①若手医師は診断、治療方針などに難渋した場合には、自ら勉強し、得た結論を先輩医師に訴え、その応答をさらに検討。②学会発表は関連文献を熟読し、原稿用紙なしで、淀みなく発表。③体験症例に関する独自のsummaryを作成。④学会では自分と共通分野を研究する医師との出会いを大切に。
最後に、田崎先生主宰の九州小児不整脈研究会の先生、互いに助け合い共通の道を歩んでくださった盟友長嶋先生、好き放題を許してくれた横浜市大の先生方に感謝します。
以上、老医の戯言を述べた。