日本体育・スポーツ・健康学会第71回大会

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体育史/口頭発表②

2021年9月9日(木) 09:30 〜 09:55 会場3 (Zoom)

座長:佐々木 浩雄(龍谷大学)

09:30 〜 09:55

[01 史-口-02] 東京府青山師範学校附属小学校・国民学校における運動技術指導

配当教材数の変化を中心に

*藤川 和俊1 (1. 帝京平成大学)

1920-40年における日本の体操科では「技術の末に走る」ことが繰り返し批判されていた。その一つが教材配当に関する批判であり、当時の学校体育界を牽引していた二宮文右衛門は、運動技術を重視して少数の教材のみを指導することを批判していた。そのうえで、多数の教材を循環させながら少しずつ上達させる指導法を提唱していた。一方、1930年代後半になると、篠原助市の体育論に依拠した篠崎謙次や浅井浅一によって、少数の教材を長期間継続して指導し、熟達させるという指導法が提唱されるようになった。つまり、1930年代後半には教材配当に関して異なる考え方が混在するようになったといえる。しかしながら、こうした状況下で学校現場の実践がどのように変化していったのかということは明らかにされていない。学校体育における運動技術指導をめぐる問題の実態にせまるためには、実践主体であった学校現場に着目し、1930-40年代前半にかけて運動技術および教材配当に対する考え方がどのように変化したのか、それが実践にどう反映されていたのかを明らかにする必要がある。そこで本発表では、東京府青山師範学校附属小学校・国民学校(以下青山師附小)を対象とし、運動技術や教材配当に対する考え方や実践がどのように変化したのかを検討、考察する。青山師附小は出張指導や研究発表会を通して全国の小学校に影響を与えていたため、その考え方や実践は当時の実態にせまるうえで重要な意味をもつ。結果は以下のようである。青山師附小は1940年を境として、全身に運動の効果を及ぼすために多数の教材を扱うという考えから、教材を精選し熟達させるという考えに変化していった。この考え方は指導案にも反映されており、1940年以降に教材数の減少が確認された。以上のことから、1940年以降、教材を精選して運動技術に熟達させるという指導法が学校現場に浸透していったと考えられる。