2:51 PM - 3:21 PM
[00哲-口-06] An Attempt to Interpret "Trying Physical Movement" Based on Peirce's Philosophy
Perspectives on the Concept of Abdactive Physical Movement
本研究の目的は、「人間が身体運動を試みる」という現象にどのような内実や実相があるのかを明らかにすることである。方法論として、人間が体育・スポーツなどの身体運動をする場面を事例として取り上げ、それらをパース哲学に基づいて解釈する。
ある程度の身体経験が蓄積されていれば、ある運動を必要とする場面において蓄積された経験が推論の素材となり、一つの身体運動経験は成立するだろう。しかし、厳密に見れば、我々の身体運動経験に完全に同一のものは無く、経験はあくまで推論の素材であって我々は不断に新規の身体運動を試みている。幼少期の人間の身体運動経験は乏しいと言わざるを得ないが、彼らは積極的に「身体運動を試みよう」とする。中には、参照対象となる経験が少ないと思われるにも関わらず、突拍子も無い大胆で無茶な運動をして、大人に冷や汗をかかすこともある。なぜ、彼らは「それ」をすることができるのだろうか。
「人間が身体運動を試みる」現象を探究することは、人間が学ぶとはどういうことか、成長するとはどういうことか、という人間そのものへの理解へと接近することでもあると考える。
ある程度の身体経験が蓄積されていれば、ある運動を必要とする場面において蓄積された経験が推論の素材となり、一つの身体運動経験は成立するだろう。しかし、厳密に見れば、我々の身体運動経験に完全に同一のものは無く、経験はあくまで推論の素材であって我々は不断に新規の身体運動を試みている。幼少期の人間の身体運動経験は乏しいと言わざるを得ないが、彼らは積極的に「身体運動を試みよう」とする。中には、参照対象となる経験が少ないと思われるにも関わらず、突拍子も無い大胆で無茶な運動をして、大人に冷や汗をかかすこともある。なぜ、彼らは「それ」をすることができるのだろうか。
「人間が身体運動を試みる」現象を探究することは、人間が学ぶとはどういうことか、成長するとはどういうことか、という人間そのものへの理解へと接近することでもあると考える。