日本地震学会2021年度秋季大会

講演情報

C会場

一般セッション » S10. 活断層・歴史地震

AM-2

2021年10月16日(土) 11:00 〜 12:15 C会場 (C会場)

座長:石村 大輔(東京都立大学)、白濱 吉起(産業技術総合研究所)

11:45 〜 12:00

[S10-04] 1780年ウルップ島地震による北海道への津波の影響

〇林 豊1 (1.気象研究所)

1. 背景
 1780年6月29日千島列島のウルップ島での地震に伴う津波の様子は,島の東海岸に停泊中に津波に遭ったロシア船聖ナタリア号の航海日誌に詳述されている(Soloviev and Ferchev, 1961).航海日誌からは,1月から有感地震が多発したこと,5~6サージェン(1サージェン=2.133m)の高さの津波で船が流され陸に乗り上げたこと,津波が夜明け前から日没まで継続したこと,浸水は島の南部と東部にあり北部にはなかったこと,北東側の三島(チルポイ,シムシル,ケトイ)まで津波(ウルップ島よりも小さい)と余震があったこと,などを読み取れる.
 NOAAの津波データベースは,ウルップ島とその北東側の三島に加え,Iida(1984)のカタログを引用して北海道東岸でも津波があったと記し,ウルップ島での高さも記載している.いずれも高信頼度の津波記録と判定している.ロシアのノボシビルスク津波研究所(NTL)のデータベースは,さらに択捉島も加え,全場所の津波高も記載している.地震のマグニチュードは,NOAAのデータベースは7.5,NTLでは8.2,最新の「日本被害地震総覧」(宇佐美・他, 2013)では7.0など,カタログによる差が大きい.
 ウルップ島とその北東側各島への津波は,当事者の調査記録に基づく明らかに高信頼度の情報だが,択捉島と北海道東岸への津波については,Iida(1984)にもNOAAとNTLのデータベースにも典拠が示されず,信頼性と根拠が不明確である.択捉島以西の津波の状況は,マグニチュードの推定にも,津波堆積物との対比(例えば,Minoura et al., 1994)の妥当性の検討にも重要である.
 本研究では,1780年ウルップ島地震による択捉島以西の津波の情報の根拠を文献調査した.

2. 1780年ウルップ島地震に関する日本の史料
 松前藩の主な編年史・家系図(『福山旧事記』,『松前家記』など8点)を調べたが,1780年の地震・津波に関する記述はなかった.一方,地震から6年後の天明六年には,幕府から蝦夷地探検に派遣された最上徳内らが択捉島とウルップ島を訪れた.『蝦夷草紙 付録』(最上, 1790)には,ウルップ島で最近に大津波があったと聞き,津波で山に打ち上げられたロシア船も目にしたことが記されている.この発見は,当探検で初めて和人が公式に1780年のウルップ島での津波を知ったことを示唆している.本調査範囲からは,松前藩が1780年ウルップ島地震の情報を把握していた根拠は見当たらなかった.
 『大日本地震史料』(震災予防調査評議会編,1943)には,安永九年四月(1780年)の項目に,『北海道の津浪に就て』(河野,1913),『北海道史』(北海道庁編,1918),『本邦大地震概表』(大森,1919)の三文献の該当箇所を収録している.大森(1919)からの抽出箇所は,津波後に島に残ったロシア人が「厚岸,根室,国後,択捉の蝦夷と交易」したという津波の二次的な影響も含んでいる.これら三文献は,行政区としての北海道が千島列島を含む時代に記され,各文献とも1780年ウルップ島地震を道内(国内)の地震として扱ったが,ウルップ島以外,すなわち,現在の北海道・日本における直接的な津波の影響の情報は全く含まない.なお,これら三文献の地震津波の発生月(5月;日本の旧暦で四月)の根拠は判明しなかった.

3. 北海道への津波の誤解

 1960年チリ地震津波後に刊行された気象庁技術報告の中の表(湯村,1961)では,1780年ウルップ島地震が「北海道東岸へも波及した」とし,日本における津波の階級1(波高が2m内外等の基準に該当)を与えている.「北海道東岸」は,大森(1919)が示す津波の二次的な影響が及んだ範囲「厚岸,根室」ほかと整合する.このため,湯村(1961)による北海道東岸への津波の記述と津波の階級は,二次的な影響と津波の直接被害を混同したとも考えられ,誤解を招きやすい情報である.
 Iida(1984)のカタログにおける北海道東岸への津波の記述も,湯村(1961)の情報の直接または間接的な影響を受けて創られた誤情報の可能性が非常に高い.

4. 結論
 1780年ウルップ島地震とその津波に遭遇したロシア船の航海日誌には,津波について信頼度の高い情報が記録されている.しかし,ウルップ島より南西側の各島に津波が及んだことを記録する一次資料の存在は,全く確認できない.和人による同地震の把握は,1786年の蝦夷地探検より前には遡れなかった.現在,国内外で広く利用されているデータベースやカタログには,北海道東岸などへの津波到達・高さの情報を含むものが多い.しかし,択捉島以西への津波は誤情報だと判断するのが妥当であり,修正が必要である.