[3-A-3-03] 個人情報と「進化し続ける医療」を支える倫理
2000年代後半以降、米国では医療現場で生み出される情報を体系的に運用することを軸とした “ラーニング・ヘルスケア・システム" モデルが、一部の生命倫理学者によって提唱され、注目を集めてきた。知識生産(learning) を医療本来の活動のひとつとして位置づけ、 実臨床で得られる情報の活用と現場への成果の還元をめぐって、医療者や患者らの役割再編を主張するものである。この主張に関する評価は必ずしも一様ではないが、30年ぶりのアメリカの被験者保護法制(連邦規則45CFR46)の全面改正へと至る論点のひとつになった。診療現場での知識⽣産のうち、どこまでが研究で、どこからが診療の一環と位置づけられるか。そもそもそうした線引きにどこまで意味があるのか。倫理上の位置づけの再検討を促す議論であったといえる。こうしたアメリカの議論は日本にとっても無縁ではない。今日の国の研究倫理指針に依れば、研究とは “知識を得ること" を目的とする活勤と定義される。しかし、患者が医療機関に通い、生み出される「病歴」をはじめとする多くの健康医療上の知見が、その個人の診療のみならず、広い意味で研究開発や医療改善への情報提供にも重要な意味を持つことを積極的に期待するならば、診療情報は少なくとも誰か「だけ」のものではなくなる。従来の倫理の視点に学ぴつつ、社会・集団の一員として個⼈が果たすべき役割のあり⽅を論じる、公衆衛生倫理の観点を加味した検討が不可欠である。日本の個人情報保護が「“連帯”が消えて、保護という名の下で孤立した個人が残る」(樋口範雄『医療と法を考える』有斐閣・2007年)とならないよう、連帯のもとに展開される知識の産生のあり方を議論する時期にある。