日本教育心理学会第58回総会

講演情報

自主企画シンポジウム

リフレクションと教師の成長

教師として成長すること(2)

2016年10月9日(日) 13:30 〜 15:30 63会議室 (6階63会議室)

企画:遠山孝司(新潟医療福祉大学), 浅田匡#(早稲田大学)
司会:浅田匡#(早稲田大学)
話題提供:遠山孝司(新潟医療福祉大学), 浅田匡#(早稲田大学), 中村駿(早稲田大学), 前田菜摘(早稲田大学)
指定討論:高橋知己(上越教育大学)

13:30 〜 15:30

[JE08] リフレクションと教師の成長

教師として成長すること(2)

遠山孝司1, 浅田匡2, 中村駿#3, 前田菜摘4, 高橋知己5 (1.新潟医療福祉大学, 2.早稲田大学, 3.早稲田大学, 4.早稲田大学, 5.上越教育大学)

キーワード:リフレクション, ノーティシング, センスメーキング

企画趣旨
浅田 匡,遠山孝司
 リフレクションが教師の成長の鍵であるとされてきたが,リフレクションとは何か,またリフレクションの働きについては必ずしも十分に検討されてきたとは言い難く,リフレクションが活動主義に陥っているといえなくもない現状である。本シンポジウムでは,リフレクションとは何か,具体的な授業状況での教師の授業認知・思考とリフレクションとの関連ということを,模擬授業や実際の授業場面を例示しながら,リフレクションを行うことが教師の成長にどう関わるのか,について,リフレクション,ノーティシング,センスメーキングをキーワードに,フロアとの積極的なディスカッションを通して考えてみたい。
話題提供1:リフレクションの変容から考えられる授業力の形成プロセス
遠山孝司
 日本の教員養成において,教員を目指す大学生の授業力を身につけるための方策の一つとして,模擬授業が用いられる。この話題提供では大学生および新任教員が自らの模擬授業や授業を振り返るインタビューで語られる内容が授業経験を積む中でどのように変化したのかを「暗黙知の形成」「ワーキングメモリー」「自動化」「内面化」というキーワードで整理し,リフレクションが教員の力量形成にどのように寄与するのかについて,検討を行いたい。
 中学校保健体育の教員を目指す大学生の保健の模擬授業の振り返り内容について研究する中で教員として授業を行う経験の少ない大学生は,初回の授業では「今自分が何をするのか」に意識を向けがちであり,その振り返りにおいても,予定と実際の行動を比較し言及する傾向があることや2回目,3回目の模擬授業では授業中に「今自分が何をするのか」だけでなく同時に「この後何をするのか」を考えられるようになることが示されてきた(遠山・吉田・西原・浅田, 2013)。これについて短期記憶やワーキングメモリーなどの記憶研究で示された「同時に考えられる思考の量には限界があること」(Allen & Baddeley, 2009; Cowan, 2001; Miller, 1956)を元に解釈すると,授業をする経験のほとんど無い大学生は初回の授業では「今自分が何をする予定だったか」「今自分が何をしているか」の2種類の内容でワーキングメモリーがほぼ満たされているが,経験を積む中で余裕が生まれ,生徒の反応や理解,この後行う教授活動や児童生徒の中で起きている変化について考えられるようになるのではないかと考えられる。
 これを踏まえて教員を目指す大学生の模擬授業の授業中の思考について振り返ってもらい,その内容が模擬授業の経験を積み重ねる中でどのように変化するのか,教員を目指す大学生と初任者教員が授業中にどんなことを考えているのか,その思考の内容についての語りを比較検討した(Tohyama, Asada, Yoshida, Nisihara, 2015)。語られた内容について分類し,出現頻度について分析した結果,大学生は模擬授業の経験を繰り返す中で自分自身が授業中何をするのかについての振り返りが減り「自身の教授活動が何を目指しているものなのか」「子どもの中でどのような変化が生じているのか」について,考えるようになっていくことが明らかにされた。これは,教授経験を繰り返す中で教授活動が自動化され,それに伴って生まれた余裕の中で子どもの中に起きる変化やよりよい授業を考えるようになったとき,授業についてのセンスメーキング(Weick, 1995; Maitlis & Christianso, 2014)が活性化され,教師としての成長が起こるのではないかという仮説を示唆するものである。授業を行う教員の発達に関連してポランニー(2003)は学習された知識が内面化されて暗黙知へ変化するプロセスを提案しているが,大学生の授業力の形成は,意識化された自らの教授行動が自動化され教授行動が引き起こす生徒の反応や教育効果についてその場で振り返る余裕が生まれる中で発展するのではないだろうか。
話題提供2:リフレクションを限定するノーティシング
中村 駿
 Schön(1983)によれば,行為の中の省察は予期せぬ状況を契機として生起するが,この状況は所与のものとして教師の前に現れるものではない。それは,環境から注目する境界を定め,そこから意味を形成することによって構成される。つまり,状況構成には,教師による能動的な働きかけが要求される。行為の中の省察は,教師によって構成された状況を基に生起するため,言い換えれば,教師の状況構成に限定されると言えよう。
 ところで,近年教師教育ではノーティシングという,授業過程における教師の注目箇所と意味形成を対象とした研究が多くなされている。この話題提供では,こうした教師のノーティシングを教師の状況構成の手がかりとしながら,ノーティシングとリフレクションの関係を検討したい。
 他者の授業ビデオから作成した静止画100枚を連続して教師に見せ,教師による認知を検討したノーティシングに関する提案者の研究から,教師のノーティシングの特徴として,第1に,教職経験を通して教師は特定の対象に注目するようになることが挙げられる。本研究では,特に「児童の表情」や「児童の視線」に注目するようになることが示された。Ekman et al.(1975)やRichmond et al.(2003)によれば,それは情動を読み取る上で精度の高い情報源とされている。したがって,教師は経験を通して,児童の情動を読み取る上でより精度の高い情報源,すなわち,児童の表情や視線に注目するように学んでいると考えられる。第2に,教職経験年数で説明できない側面も見られ,状況の読み解き方と授業の流れに関するイメージにおいて特徴の違いが見られた。1つ目の状況の読み解き方に関して,1枚の写真スライドを1つの状況と見なす教師もいれば,複数枚を1つの状況として見なす教師も見られた。2つ目の授業の流れに関するイメージに関して,一部の教師から,授業がどのように展開していくのかに関する予期を含めて言及されていることから,それが授業を見るときの枠組みとして機能し,予期とは異なる状況を顕在化させていると考えられる。
 以上から,教師によるノーティシングは,教職経験によって注目箇所の傾向は変化する一方,同一の注目箇所でも授業状況の読み解き方や授業の流れに関するイメージによって多様な現れが見られるということである。
 これまでのリフレクション研究では,初任者教師のリフレクションがうまくいかない理由を重要な授業状況に気づけないためであるとされてきた。しかし,研究結果を考慮すると,単に注目する箇所の問題だけではなく,教師の読み解き方や流れのイメージも含めた,より複雑な状況の捉え方が求められる。特に後者が経験によらないとすれば,これまでと異なる視点からリフレクションの要件を考察できるのではないだろうか。
話題提供3:センスメーキングの観点から考える教師の思考過程とリフレクション
前田菜摘・浅田 匡
 教師は何をリフレクションするのか−−−−このことを次の事例から考えてみたい。
 関東の公立小学校に勤務するT教諭による国語科「豊かな言葉の使い手になるためには(光村図書5年)」の第2時での一場面である。
 T教諭は,「豊かな言葉」の意味を考えるために,「豊かな言葉の使い手だと考えられる職業と,その理由」について児童に意見を求めた。「アナウンサー」や「教師」などの多様な意見が挙げられる中,ある児童が「ピエロ」という意見を出した。T教諭は,この意見に初めは驚きを示したが,「自分がピエロを見たときに面白いと感じた。病気の子を笑わせたりもしていた」という児童の理由を聞き,これを肯定的に受け入れた。その後,だいたい意見が出尽くしたところで,T教諭は「ピエロっていう意見があったけど…」と前置きをした上で,「お笑い芸人はどう思う?」と投げかけた。T教諭は,元からエンターテイナーとしての職種も扱いたかったと述べており,「ピエロ」という意見はT教諭にとって「面白い意見」として意味をもったのである。
 また,T教諭は,「弁護士」も児童から出て欲しかった意見の一つとして挙げていたが,最後まで教師側から取り上げることはしなかった。これについてT教諭は,児童から出された意見が,優しさや暖かさといった方面での豊かさに関するものが多く,言葉で戦うような職業を出す雰囲気ではなかったと語っている。T教諭は,個別の意見だけでなく,「全体の流れ」という状況を捉え,T教諭自身の解釈で意味づけていることが分かる。
 この場面で,T教諭の行為を規定しているのは,T教諭自身が児童の意見や授業の流れをどのように捉え,解釈したかであり,T教諭が具体的に何を認知したのか,また,他にどのような手立てを有しているのかは問題にならない。T教諭の判断は,客観的な正しさよりもT教諭にとっての「もっともらしさ」に基いているのである。
 この事例は,教師の思考過程が,キューの発見と手立ての選択からなる情報処理的な意思決定モデルではなく,「センスメーキング(Weick, 1995)」によって捉えることができることを示唆している。Weickによれば,センスメーキング(意味形成)において,行為は,多義的な状況から当人にとってもっともらしい意味が見出されることによって自ずと導かれる。そこで問題となるのは,行為主体が状況に対してどのような意味を付与するかであり,認知の正確性や他の選択肢の有無は問題にならないのである。
 教師の思考過程をセンスメーキングとして理解できるとすれば,リフレクションは,意思決定時の手立ての良し悪しの評価や代替案の創出とは違った意味を持ってくるのではないだろうか。他の事例も加えてセンスメーキングとしての教師の思考過程を検討しながら,実践に影響するリフレクションとは何を意味するのかを考えたい。