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[MIS27-P03] 群馬県南部における雹霜害関連碑とその建立経緯の検討
キーワード:雹霜害、養蚕、災害碑、歴史災害
群馬県南部における歴史災害について、災害関連碑を一つの手がかりとした調査研究を進めている。その結果、本地域にはこれまで知られていた天明3(1783)年浅間山噴火・火山泥流被害に関連する石碑以外にも、明治43(1910)年、昭和10(1935)年、昭和22(1947)年水害など、過去に発生した洪水や土砂災害に関連した記述の見られる石碑が多数存在していることが明らかとなりつつある。洪水や土砂災害以外にも、本地域には雹霜害に関連するとされている石碑が多数存在している。本地域はかつて養蚕の盛んな地域であったことから、雹霜害による桑の葉の枯損が発生すると、桑の葉を飼料とする蚕の飼育が不可能となり、養蚕農家に大きな経済的損失が発生した。雹霜害により多くの蚕が死滅すると、その亡骸を埋め、その地に塚を造成して石碑を建て、蚕の霊を祀ったとされるものが多くみられる。この地域の養蚕業は幕末期から盛んになり、昭和期に衰退しており、この間に建立された雹霜害や養蚕に関連した石碑が多数分布する。とくに、明治20(1887)年の榛名山南東麓における雹害や明治26(1893)年の群馬県下における霜害に関する詳細な記述のある石碑が存在する。これらの碑は、気象観測が未だ脆弱だった明治期におけるローカルな気象現象、気象災害、当時の地域社会に与えた雹霜害の影響や地域社会における養蚕業の重要性を示す貴重な記録である。
雹霜害による蚕の供養のための建立とされる石碑には、そのように雹霜害に関する詳細な記述が刻まれているものもあるが、碑名や建立年、建立者などの記載のみのものもある。この地域は養蚕の発展とともに養蚕信仰が盛んとなり、豊蚕を願って碑を建立したとされるものも多くある。また、蚕の犠牲の上になりたっている蚕糸業においては、製糸工程において犠牲となった蚕の供養を目的とした碑も多く建立されている。これら養蚕と関連する石碑には、蚕影大神、蚕影山大神、絹笠明神などといった碑名が記されており、養蚕信仰とも結びついているとされ、碑が建立された目的は多様である。それらの多くが雹霜害による蚕供養のために建立されたとする見解もあれば、それに否定的な考えもみられ、碑名や建立年などの記載しかないものについては、その建立経緯が明確になっているとは言い難い状況にある。本発表では、本地域における災害関連碑の分布や特徴を示したうえで、とくに雹霜害による蚕の供養碑との見解がみられる石碑について、それらの石碑の碑文や諸資料から読み取れる雹霜害の状況、それらの碑の建立経緯などを整理し、その検討結果を示したい。
雹霜害による蚕の供養のための建立とされる石碑には、そのように雹霜害に関する詳細な記述が刻まれているものもあるが、碑名や建立年、建立者などの記載のみのものもある。この地域は養蚕の発展とともに養蚕信仰が盛んとなり、豊蚕を願って碑を建立したとされるものも多くある。また、蚕の犠牲の上になりたっている蚕糸業においては、製糸工程において犠牲となった蚕の供養を目的とした碑も多く建立されている。これら養蚕と関連する石碑には、蚕影大神、蚕影山大神、絹笠明神などといった碑名が記されており、養蚕信仰とも結びついているとされ、碑が建立された目的は多様である。それらの多くが雹霜害による蚕供養のために建立されたとする見解もあれば、それに否定的な考えもみられ、碑名や建立年などの記載しかないものについては、その建立経緯が明確になっているとは言い難い状況にある。本発表では、本地域における災害関連碑の分布や特徴を示したうえで、とくに雹霜害による蚕の供養碑との見解がみられる石碑について、それらの石碑の碑文や諸資料から読み取れる雹霜害の状況、それらの碑の建立経緯などを整理し、その検討結果を示したい。