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[MIS17-P02] 1605年慶長津波の八丈島における遡上高の再検討

キーワード:津波、八丈島、歴史記録、1605年慶長地震、地震
南海トラフ,相模トラフ,伊豆小笠原海溝に囲まれる伊豆諸島の津波履歴を把握することは,日本の災害研究において重要である.伊豆諸島の中で八丈島は豊富な歴史記録を有しており,江戸時代に1605年慶長津波,1677年延宝津波,1703年元禄津波の3つの大きな津波の被害を受けたことが知られている.歴史記録に基づき,1677年延宝津波については遡上高が8~10 m,1703年元禄津波については約10 m以上と推定されており,先行研究間で整合的な解釈が得られている.一方,1605年慶長津波については,複数の先行研究が8~10 mと推定している一方で10~20 mとする研究も存在し乖離がある.そこで本研究では,1605年慶長津波の八丈島での遡上高の歴史学的・地形学的再検討を行った.先行研究のうち,8~10 mと推定している研究は,歴史記録『八丈実記』の『海嘯』の項目の記述をもとにしている.この記述の妥当性を評価するため,筆者らは『八丈実記』に引用元の出典として記されている『八丈年代記』の原本を調査した.その結果,該当箇所の記述のうち,漢字表記の「不」が「下」に類似しており,この取り違えによって本来の「村残ラズ失ル」が「村ノ下残ラズ失ル」と書き写された可能性があることがわかった.「村残ラズ失ル」を採用すると,遡上高は集落の想定標高を上回る必要があり,少なくとも10 m程度以上必要であると考えられる.さらに筆者らは,地形学的観点からも考察を行った.八丈島の西海岸一帯は標高約5 mの高さまで切り立った海食崖が基本的に続く地形になっている.加えて,海岸沿いの地域は台風の被害を受けることが多く,標高約10 mまでは頻繁に巨礫が打ち上げられることが知られている.そのため,標高約10 m以下の地域は定住に適さないと考えられ,したがって集落はそれ以上の標高に位置した可能性が高い.以上を踏まえ,1605年慶長津波の遡上高は,八丈島の西岸において10 m以上であったと考えられる.