The 56th meeting of the Japanese association of educational psychology

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学校における文化研究の新たな可能性

学校行事と部活動に焦点化したフィールドワークから

Sun. Nov 9, 2014 1:30 PM - 3:30 PM 505 (5階)

[JH06] 学校における文化研究の新たな可能性

学校行事と部活動に焦点化したフィールドワークから

東海林麗香1, 尾見康博1, 松嶋秀明2, 杉山ひとみ3, 西田公昭4 (1.山梨大学, 2.滋賀県立大学, 3.昭和町立押原小学校, 4.立正大学)

Keywords:文化, 教科外・課外活動, フィールドワーク

企画趣旨
ある集団や場に共有される考え方や振舞いのかたち,それに関わる記号や人工物を文化と考えるとき,文化は我々が毎日を円滑に過ごす助けになると同時に,拘束するものともなる。学校において,そのような文化のありようが顕になる活動として,小中学校における教科外活動および課外活動を取り上げたい。学校行事や児童会・生徒会活動,総合的な学習の時間等の教科外活動は,学習指導要領によって目標や内容は明示されているものの,その具体的な内容や方法は各学校および教員の裁量に任されている。また,課外活動の代表である部活動については学習指導要領総則において,教育課程との関連が図られるようにという留意点のみ示されている。しかしながら,一般に,学校行事や部活動には多様性があまり見られず,ある種の文化的価値により実践が枠づけられているといえよう。
以上のことから本企画では,教科外活動および課外活動を文化的実践として捉え直しを行う。具体的には話題提供において,東海林が小中学校における行事を,杉山が小学校における運動会の練習を,尾見が中学校における部活動を取り上げる。その際,これまでの生活から離れた場に長期的に関わった経験や,またそこから戻っての再適応の過程における経験を含め,フィールドワークから得られた知見を軸に発表を行う。
これらをもとに,マインドコントロール研究の第一人者による指定討論を中心に会場の参加者も交えて,マインドコントロールと学校教育の類似性,学校における文化研究の新たな可能性,および,学校文化の課題や変革の可能性について考えていきたい。

話題提供要旨① 東海林麗香
学校行事をめぐる教師のジレンマからみる学校文化
【一斉指導】と【個に応じた指導】とのジレンマに悩む教員の声は聞かれるものの,例えば一斉指導の文脈に乗り切れない子どもを「小1 プロブレム」と位置づけるように,一斉指導を前提とした議論が未だ中心である。しかしながら学校には様々な背景をもつ子どもが一同に介しており,「みんなで/同じように」という前提が問い直されつつある。このような【一斉】【個】のジレンマが個人単位のみならず学校単位にもなりうる機会として,学校行事がある。本発表ではジレンマを「みんなで/同じように」をはじめとする学校における文化を問い直す契機になると捉え,そこからさらに,学校が発達の多様性を支える環境として機能するためにはどんな変化が必要なのかについて検討したい。
発表において提示するデータは,発表者が学習補助ボランティアや業務の一環で訪れた学校(フィールド)における経験および,主に小中学校教師を対象としたインタビューによるものである。インタビューにおいては,学校行事をめぐるライフストーリーを聞くが,特にジレンマに焦点を当てる。フィールドノーツおよびインタビューデータから,支配的な意味づけのありよう(ドミナント・ストーリー)とそれに影響すると語られた(あるいは考えられる)社会的事象について整理した上で,他の意味づけの可能性(オルタナティヴ・ストーリー)と,それを支える人や事柄にはどのようなものがあるかを示す。これにより,学校行事が文化的実践としてどのように維持されているかも見えてくるだろう。
話題提供要旨② 杉山ひとみ
小学校教員15年目の異文化体験:幼稚園でのフィールドワークとその後の実践からみる小学校文化
小学校現場において,幼児教育の何をどのように小学校教育へ接続していくか,具体的な姿を探索的に検討していくために,教職大学院1年目在籍時に,幼稚園と小学校でフィールドワークを行い,幼児教育から小学校教育への移行における支援のあり方を検討してきた。
幼稚園は小学校とは全くの異文化であった。幼稚園では,時間,空間,活動の制限が少なく,遊びを中心に子ども主体に園の生活が行われていた。一方,小学校は日課表や教育課程による制限が多く,学習を中心に決められた枠の中で日々を過ごしていく。これらの違いの一つ一つが小学校教育へ移行していく子どもにとって,違和感や困り感を抱かせていると考えた。
そこで,小学校勤務に戻った際に,幼児教育の中心であった遊びを小学校教育の中に取り入れることで,なだらかな移行を目指してきた。遊びの要素を取り入れた活動を取り入れていくこと,これまでの遊びや経験と机上での学びをつなげていくことで,学ぶことへの意欲の高まりも期待できると考え,実践してきた。実際に,遊びや経験を学びと結びつける経験を重ねてきたことで,子ども自らが生活や経験と学びを結びつけるようになり,机上での学習にとどまらず生活に生きる学びを紡ぎだす子どもの姿が見られるようになってきた。
その一方で,実際には,うまくいかなかった支援(実践)もあった。具体的には,ひらがなの学習や運動会での練習であった。特に,運動会練習では,幼稚園と小学校の規模の違いから,小学校で初めての運動会となる1年生にとって戸惑いや困り感が強くあることを理解しながらも,遊びの要素を取り入れながら楽しく運動会当日を迎えることはできなかった。それは,教師に遊びの様子を取り入れる余裕がなかったことに起因する。子どもへの評価が教師への評価と感じられてしまい,目標に到達させようという思いの余り,子どもに無理をさせてしまう自身のあり方に気付いた。発表では以上のような経験を中心に,小学校教諭としての意識のあり方およびその課題について議論したい。
話題提供要旨③ 尾見康博
グローバル化時代の学校スポーツとしての部活
中学校用の学習指導要領を見ると,「生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。」という一文が総則に書かれている。しかし,部活(ここでは運動部を主たる対象とする)は,課外活動でありながら,事実上全生徒の参加を義務づけていたり,全教員の顧問就任を義務づけていたりする学校も珍しくなく,さらには,正課活動を犠牲にすることをいとわないことがあったり,入試の際の内申点としても加味されたりすることもあるという,きわめて矛盾に満ちた「学校教育」の形態であるといわざるをえない。世界的にも部活のような学校スポーツの形態はきわめて特殊であり,部活には日本文化が凝縮されていると考えることすらできるかもしれない。
「悪平等主義」とまで揶揄されるほど平等を重んじる日本の学校において,部活は「エリート主義」とも呼ぶべき「不平等主義」を採用している。特に集団スポーツのレギュラーと補欠,あるいはベンチ入りとそれ以外との差別化は顕著であり,たとえば,野球部に入っても卒業するまでほとんど野球の試合に出ることのない部員がいたりする。驚かされるのは,三年間試合にほとんど出られなかった生徒が,「野球部に入って本当によかった」といったことを笑顔で話すことがあったりすることである。野球そのものをする機会がなかったにもかかわらず,である。特に中学生の時期は身体発達の個人差が大きく,常に同学年単位で運動能力やスキルを比較して優劣を明確化してしまうことは,少なくとも一人ひとりの能力を伸ばすという観点からすると問題が大きい。
また,部活の指導法にありがちな精神論や根性主義は,日本の教育界あるいは日本社会全体の規範を凝縮したものと考えられるのではないかということ,そして,部活の指導者が勝利至上主義になってしまう背景に「トーナメント」という試合形式があるのではないかということなどについて,日米のジュニアスポーツの事例を挙げながら論じる。以上のような部活の実態を踏まえた上で,グローバル化時代の学校スポーツの可能性について考えたい。